036 一撃の采配
その日の夜。開拓地の広場では、焚き火を囲んで夕食が始まっていた。
パチパチとはぜる薪の音と、大鍋から立ちのぼるスープの香りが、一日の労働を終えた団員たちの疲れを癒やしていく。
俺――ハルキは、焚き火から少し離れて座るセイルの皿に目をやり、ふと手を止めた。
彼の皿にあるのは、薄味の干し肉と、軽く茹でただけの野草、それに少量のベリーだけだ。
「セイルさん、もしかして……エルフってやっぱりベジタリアンなんですか?」
俺が尋ねると、セイルは器を置き、心底呆れたようにため息をついた。
「ハルキ。お前は俺が何を生業にしていると思っている?」
「え、いや……凄腕の狩人ですけど」
「だろう? 獲物を追う者が、自分の居場所を喧伝するような匂いの強
いものを口にするわけがない。ニンニクや香辛料、まして酒など論外だ。森へ入る数日前から体臭を抑えるのは、基本中の基本だぞ」
※喧伝: 言いふらすこと。
セイルは淡々と続ける。
「エルフは肉を食べない、酒を飲まない――そんな噂は知っている。だがそれは『食べない』んじゃない。狩猟が生活の中心にあるから『食べられない』だけだ」
彼にとって食事は「愉しみ」である前に、「狩猟の準備」なのだ。
とくに若いエルフの男にとって、狩りの成果は村での名誉や地位に直結する。彼がこれほどまでに自制的なのは、その誇りゆえだろう。
やがて話題は、今日逃したあのアカシカのことへ移った。
「あの三歳の雄……明日も追うんですよね?」
俺がそう言うと、セイルは焚き火を見つめたまま頷いた。
「ああ。だが若い雄は行動範囲が広く、気まぐれだ。別の群れに合流するかもしれないし、さらに遠い山へ移るかもしれん。明日あの場所へ行っても、二度と会えない可能性もある」
それを聞いて、俺は思わず身を乗り出した。
「鹿は決まった行動をする」――そんな風に教わってきたからだ。
話が違うじゃないか、と。楽観視していた自分を棚に上げながら、内心でそう呟いてしまう。
「……だったら、なおさら今日撃つべきだったんじゃないですか? セイルさんの弓を強化するために、どうしても必要な素材だったんでしょう?」
みすみす好機を逃したのではないか。
そんな俺の疑問に、セイルは静かに、しかし重みのある声で応えた。
「ハルキ。“一撃”で仕留める意味を考えろ。狩猟は博打じゃない」
彼は地面の土を指でなぞり、鹿の体の構造を描く。
「確実に、苦しませず即死させるには“バイタル・ライン”を射抜く必要がある。前脚の付け根の少し後ろ――心臓と肺が重なる、わずかな空間だ。そこを貫けば、獲物は数歩も動けずに絶命する」
セイルは俺をまっすぐに見た。
「だが今日の位置では、葦が邪魔で正確に狙えなかった。中途半端な場所に当たれば、鹿は致命傷を負いながら逃げ延びる。それは素材を損なうだけでなく、森に無用な苦痛を撒き散らすことになる」
「でも……セイルさんなら、電撃魔法と速射で強引に仕留める、ってやり方は? 数で圧倒する、みたいな考え方もありますよね」
かつてネットで見た、クマ被害への「とにかく撃て」という乱暴な意見が頭をよぎる。
だがセイルは静かに首を振った。
「技術の伴わぬ矢は、ただの暴力だ。俺が欲しいからといって、不確実な一射を放つ権利はない。俺の願望など、鹿にも自然にも関係のないことだ」
火花がひとつ、闇へ弾けた。
「俺は尽くせる限りの最善を尽くし、そのうえで訪れる“確定した機会”を待つ。もし来なければ、それは自然が『今日はその時ではない』と決めたということだ。俺はそれを受け入れる」
そして、ぽつりと付け加える。
「……矢を放つのは、一撃で仕留められると確信した瞬間だけだ」
俺は言葉を失った。
「欲しいものは必ず手に入れる」「効率と結果がすべて」――そんな価値観の中で生きてきた俺には、セイルの在り方はあまりにも高潔で、遠い世界の住人のように思えた。
理屈では理解できる。
だがそれを、自分の実感として受け止められるだろうか。
夜の静寂のなか、焚き火を見つめながら、俺はセイルの語った「自然と共にある世界」を、ゆっくりと反芻していた。
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【狩猟知識:中世ハンターの「隠密性」と匂いの科学】
12世紀から14世紀の欧州において、プロの狩人は現代の特殊部隊にも通じる驚異的な「隠密技術」を持っていました。
彼らが最も警戒したのは、視覚よりもむしろ獲物の「鼻」です。鹿の嗅覚は人間の数千倍とも言われ、わずかな異臭で数百メートル先の危険を察知します。
そのため、熟練の狩人は森に入る数日前から生活を一変させました。
本文でセイルが避けていたように、ニンニクや玉ねぎといった刺激物、そして酒を断つのは基本中の基本です。これらは体内に吸収された後、吐息や汗となって数日間も独特の臭いを放ち続けるからです。
また、意外な天敵が「焚き火」でした。
煙の匂いは髪や服の繊維の奥深くまで染み込み、洗ってもなかなか落ちません。野生動物にとって煙の臭いは「火災」や「人間」を連想させる最大の警告音です。そのため、本番の狩りを控えた者は、寒冷地であっても火に当たらず、体温だけで夜を明かすことさえありました。
逆に、彼らは積極的に「森の匂い」を身に纏いました。
シダの葉や松のヤニを体に擦り付けたり、わざと泥にまみれたりすることで、自らの存在を風景の中に溶け込ませたのです。
セイルが食事を制限し、焚き火のそばに居ながらもどこか距離を置いているのは、彼が子供の頃から叩き込まれた「完璧な狩人」としての本能なのかもしれません。




