035 琥珀湖の追跡者、ロジカル・ハンティング
第一章:森のデータ解析
森は重たい湿度に包まれていた。
初夏。生命が爆発する季節だ。
開拓団がこの地に着いたのは冬の面影が残る春だった。
頭上を覆う広葉樹の葉は、太陽光を最後の一滴まで吸い尽くそうと深い緑を湛え
周囲の植物は狂ったような速度で上へ上へと成長を競っている。
その鬱蒼とした緑の迷宮を、セイルは一人、音もなく進んでいた。
セイルは時折、静かに地面に膝をつき、腐葉土の上に残された微かな痕跡を観察する。
(……蹄の大きさから見て、三歳の雄だ。歩幅が広い。
右足の踏み込みがわずかに深いのは、この先に傾斜があることを計算して体重を乗せているからだろうな)
セイルは淡々としていた。彼の手が、押しつぶされた草むらに触れる。
(ここで休憩したらしい。
二頭のバチェラー・グループ……いや、少し離れた場所に別の足跡がある。合計三頭か)
彼は足元に落ちていたシカの糞を指先で摘まみ、その硬さを確かめた。
(まだ中心に湿り気がある。ここを通ったのは三時間前だ)
鹿の行動にはパターンがある。決まった時間に、決まったルートを通る。
奴らは変化を嫌う。そのアルゴリズムを読み解き、先回りして待ち伏せる。
それがセイルの狩りだ。
セイルが追っているのは、特定の三歳の雄だった。
それには明確な理由がある。
セイルが現在使っているのは、連射性に優れた軽量の短弓だ。
通常ならこれで事足りるが、これから遭遇するであろう強力なモンスターを相手にするには、より強靭で重量級の長弓が必要だった。
(若い雄の背中から取れるスジは、最高級の弦になる。)
(年老いた個体は硬くて脆いが、三歳のアカシカのスジは、強靭で驚くほどの弾力を持っている。 新しい弓を打つには、あいつの素材が不可欠だ)
その時、セイルの動きがピタリと止まった。
(……いた)
視線の先、木々が途切れた丘の上に、凛としたシルエットが浮かび上がっていた。
三歳のアカシカ。
子供の頃の白い斑点は消え去り、夏毛の赤い、磨き上げた銅器のような赤褐色の毛並みが、差し込む陽光に照らされて輝いている。
まだ大人のような喉元のたてがみはなく、首筋のラインはカミソリのように鋭く引き締まっていた。
頭上には、枝分かれの少ない槍のような尖角が天を突いている。
セイルは姿勢を低くしたまま、ただじっと観察を続けていた。
距離が遠すぎる。
あのアカシカは一瞥をくれると、優雅に丘の向こうへと消えていった。
※一瞥をくれた:相手に対して、ほんの少しチラッと視線を向けること。
(追うか…?)
(……いや、あいつの行き先はわかっている。この先の水辺だ。
あいつらは明日も、同じ時間にあの場所へ現れる。
今日無理をして感づかれるより、明日の『確定したチャンス』に賭ける方が合理的だ)
セイルは頭上の太陽の位置を確認し、静かに踵を返した。
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第二章:湖畔の金融トレーダー
翌日、俺・ハルキは運搬役兼、狩猟見習いとしてセイルに同行していた。
道中、俺は自分の「鑑定」スキルを使い、足跡がシカのものであることを確認してはセイルに報告した。
だが、セイルの返答はいつも俺の予想を超えていた。
「ああ、シカだ。だがただのシカじゃない。これは俺たちが追っている群れとは別だ。出産を終えたばかりの雌のものだ。近くに子供を隠しているな。足跡の深さが、周囲を警戒して何度も立ち止まったことを示している。」
俺の鑑定は「何の動物か」というタグを表示するだけだが、セイルの説明は解像度が桁違いに高い。
それを伝えると、セイルは少しだけ誇らしげに口角を上げた。
セイルの背中を見ながら、俺はふと思った。
俺が想像していた狩猟は、もっと野生の勘や機敏な動きで獲物と格闘する、いわば「バトル」に近いものだった。
だがセイルのやり方は、膨大なデータを積み上げ、最も勝率の高い瞬間に取引を執行する、
現代社会の金融街を歩くエリートトレーダーのようだ。
(きっとこの人、現代にいたら高級スーツで固めて金融街を歩いてるんだろうな……)
そんなことを考えているうちに、俺たちは目的地の湖畔へと辿り着いた。
開拓地の村から西へ進み、水汲み場と解体小屋を通り過ぎる。さらに奥へと進むと、この湖畔がある。
「……眩し」
強烈な太陽光が鏡のような水面に反射し、俺の目を射抜く。
目の前の湖畔は、驚くほど平坦で遮るものがなかった。隠れる場所などどこにもない、丸見えの平野だ。
「セイルさん、ここで待ち伏せですか? 石ころ一つないけど……」
「あそこだ」
セイルが指差したのは、高く生い茂った葦のカーテンだった。
セイルは手際よく、目の前の葦を数本だけ軽く結び、視界を確保する。
そして、俺に「伏せろ」と手信号を送った。
熱を帯びた初夏の土の匂いが鼻をつく。
目の前には、平坦な湖畔がキャンバスのように広がっていた。
「いいか、ハルキ。鹿は喉が渇いて出てくるんじゃない。
安全だと確信したから出てくるんだ。
俺たちの仕事は、この景色の一部になりきることだ」
セイルの言葉を聞きながら、俺は弓を脇に置き、じっと湖畔を見つめた。
太陽は高く、世界はあまりに明るい。
こんな開けた場所で、本当にあのアカシカたちが姿を現すのか?
疑念を抱きながらも、俺はセイルに倣って呼吸を整え、静寂の中に溶け込もうと試みた。
湿った風が葦を揺らし、湖畔に「ざわめき」の層を作る。
俺たちの長い待ち時間が、今、始まった。
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第三章:見逃した一射
「……来るぞ」
隣で伏せているセイルが、地を這うような掠れ声で囁いた。
俺には何も聞こえない。
聞こえるのは、風が葦の葉をささらと撫でる音と、遠くで鳴く名前も知らない鳥の声だけだ。
だが、セイルの視線は一点を射抜いている。
(本当に? 何も聞こえないけど……)
そう思った直後だった。
葦の壁の奥、森の入り口から、陽光を弾き飛ばすように三頭のアカシカが姿を現した。
まだ若い、三歳ほどの雄たちだ。
バチェラー・グループと呼ばれる彼らは、一列になって慎重に足を進める。
平坦な泥地を歩いているはずなのに、驚くほど音がしない。
彼らは一歩進むごとに立ち止まり、大きな耳をレーダーのように動かして、森全体の呼吸を読み取っていた。
やがて、一番大きな個体が水際に到達した。
彼はすぐに水を飲まない。
首を高く上げ、周囲の安全を完全に確認してから、ゆっくりと頭を下げる。
すると、後ろの二頭は左右に分かれ、まるで衛兵のように周囲を睨み据えた。
一頭が飲めば、次の一頭が頭を上げる。完璧な交代制のようだ。
(……今だ。今なら、あのアカシカを狙える)
俺の指に力がこもる。だが、奴らがいるのはちょうど葦の茂みの裏側だ。
普通に考えれば、矢は茎に跳ね返される。
(でも……ワンチャン撃ってみれば。当たれば儲けもんだ)
そんな思考がよぎった瞬間、
セイルの硬い手が俺の手を制した
「このタイミングではない」
その目は、獲物を逃す焦りではなく、冷徹なまでの判断を下していた。
鹿たちは満足げに水を飲み終えると、また音もなく森の奥深くへと消えていった。
俺はゆっくりと、熱を帯びた息を吐き出した。
「当たれば儲けもん」という考えが、急激に恥ずかしくなる。
もし中途半端な場所に当たって、半矢になってしまったら、その鹿は一生癒えない傷を抱えて苦しみ続けることになるかもしれない。
ビジネスの世界では「トライ・アンド・エラー」はポジティブな言葉だが、命を奪う狩猟においては、それはただの無責任な間違いだ。
俺は「狩猟見習い」としてここに立っていたはずなのに、そんな根本的なことさえ自覚できていなかった。自分の浅はかさが、ひどく情けなかった。
「……あいつらの足音、聞こえたか?」
セイルが立ち上がり、問いかけてきた。
「いえ……さっぱり」
「そうか……そのうち聞けるようになる。今日は時間帯のデータが取れた。それだけで十分な収穫だ」
照りつける太陽の下、平坦な湖畔には、彼らがそこにいた証としての蹄の跡だけが、深く、静かに刻まれていた。
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【狩猟知識:アカシカ(赤鹿)の生態】
本作に登場するアカシカは、現実の12世紀から14世紀頃の欧州において「狩猟の王」として君臨していました。当時は王侯貴族の特権的な獲物として厳格に管理されており、広大な森には現代よりも遥かに多くの個体が生息していたと記録されています。
彼らの寿命は野生下で10年から15年ほど。その一生は、春に生まれる斑点模様の子供が、母親と密接に過ごす一年間から始まります。
成長した若い雄たちは母親の元を離れ、作中でセイルが追っていたような「バチェラー・グループ(独身グループ)」を形成します。彼らはこのグループで小競り合いを繰り返しながら、戦いの技術を磨き、秋の繁殖期に備えます。
繁殖期になると、鍛え上げた体を持つ雄たちは咆哮を上げて自らの強さを誇示し、雌の群れを懸けて激しく争います。セイルが狙う「三歳の雄」は、まさに子供時代の名残を捨て、大人の戦いへと身を投じる直前の、最も生命力に満ちた状態と言えるでしょう。




