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我が身を案ずることなかれ  作者: 水嶋つばき
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3-5

「…ムトナ。噂は聞いたな?」

「はい。…シン様はこのことを伝えに来てくださったんですか?」

「…もちろん、一番の目的はお前に会いに来たんだ。」


顔を撫でて、額にキスをした。

見上げると、やっぱり切なそうなお顔。


「…行くのか?」

「……はい。」

「…そうか。」


深く息を吐き出し、窓から天を仰ぎ見ながら呟くように話し始めた。


「…ラムセス様は、帰国されたときは意識がなかったほど生死の境をさ迷っておいでだったらしい。医師と薬師の懸命な看護で、帰国3日後、やっと目を覚まされたが、安静にせよと医師から通達されている。」

「…ああ!良かった!ネフェルタリ様…!」

「ふっ…今はラムセス様の話だぞ?」

「だって…ネフェルタリ様がどれほど安堵されたことか!きっと夜も眠れず、食も細くなったはずです!」

「…ああ。…そのご心労が影響した。」

「……え?」

「…ご懐妊の話は聞いているだろう?」

「……はい……え…お待ち下さい……シン様…」

「ネフェルタリ様のお子が流れてしまわれた。」


頭が真っ白になった。

どれだけご無理をされていたのか。

ボロボロと感情が溢れ、涙となって表に出た。

しかし今は接客中。

失礼なことをしたと思い、シン様から離れて謝った。


「あ…申し訳ございませぬ……直ぐに…止めますゆえ…」

「構わぬ。こちらへ。」

「こんな汚い姿…シン様に曝す訳には……

少々……お待ち下さいませ…今、化粧を……」

「ムトナ。構わぬと言っている。悲しむお前を一人にはできぬ。こちらへ来るのだ。」

「なりませぬ!…わたくしは…!」


突っぱねてもシン様の力には敵わず、腕を引かれると、その広い胸板に包まれた。


「泣くがよい。思いっきり声を上げて泣くがよい。私は離さぬ。お前の忠義心はネフェルタリ様のもの。それは分かっている。だが、私の心は私のものだ。悲しんでいるお前を離すなと心が訴える。」

「シン様…わたくしは…甘えることを許されておりませぬ…!お離しください……お願いします…」

「シムトラトプテには甘えただろう。」

「お母さんは…」

「意地を張るのもいい加減にしろ!!私に甘えろ!私が許す!声を張って泣け!失った命を思って泣け!主を思って泣け!」


怒られたような

慰めるような

自分の心を訴えているような

シン様の感情が逆流し

私の心を震わせ


「……それでよい。……ムトナ……」


大声で泣いた。

大声で泣くとスッキリした気分になった。

お母さんに話を聞いてもらった時と一緒。


「…シン様…申し訳ございませんでした…」

「止まったか?」

「はい。」

「…エジプトの医師技術は世界でも優秀だと名高い。お二人とも命に別状はないと言っていた。」

「本当ですか…?」

「ああ。」

「…良かった!…ネフェルタリ様…」


安堵ゆえの脱力感。お二人なら、またお子を望めるはず。

希望を捨てずに手を取り合って支え、生き抜いて欲しい。


「…悪かった。少々苛めすぎた。」

「…え?」

「お前が離れていくと分かっているが…お前の心に住んでいるネフェルタリ様以上になれない自分が悔しくてな。悲しむと思いつつこんなことを言ったのだ。」

「シン様…」

「私がネフェルタリ様より先にお前と出会っていたなら…お前は私と一緒になってくれただろうか?」

「……ええ。きっと。」

「ふっ。世辞も上手くなったものよ。」

「いいえ。お世辞ではありません。」


多分、この方に恋をしてると思う。

素晴らしい、男らしい、優しいお方。

こんなお方は生涯出会えないと思う。


「お前はほんに賢い女だ。しかし、今のエジプトは賢いだけでは生きていけぬ。」

「……はい。」

「常に構え、気を許すな。前後左右の確認を怠るな。」

「……はい。」

「首都は今、騒然としている。王家の側室が次々と死に、敗戦し、神々が怒っていると人間を生け贄に捧げるほどの動乱ぶりだ。普段の生活をしているだけで、人から刃を向けられる。それらに巻き込まれぬよう注意いたせ。」

「……はい。」

「ムトナ、もう一度聞く。…私の妻になってはもらえぬか?」

「……!!」

「…お前が愛しくて堪らないのだ。…娼館の女に惚れるなど…笑われるかもしれぬが。」

「シン様…」

「…お前が偶然街に買い物に来ていたときに見掛けたんだ。もう一月ほど前の話だ。」


急な告白に驚く。シン様は優しく口付けされて私を抱き締めた。


「着ている服や飾りなど、金持ちの女だと思った。お前は小汚ない子供を抱き抱え、必死に親を探していた。」

「……え?……あ、あれは!!」

「ふっ。思い出したか?あれは金品のない孤児や浮浪者がよく使う手なのだ。同情を誘い、人のいない場所に連れていき、殺して金品を奪う。そういうことも分からぬバカな女だと心で嘲笑っていた。」

「本来ならそこで見切るが、その時はどうしようもないほど気になってお前たちの後を追った。すると、子供たちの集合場所であろうところには小兵が3人いて、子供たちを殴っていた。それを見るなり、一目散に走っていって小兵を倒した。」

「…お…お見苦しいところを…」

「何を申す。守るために身を差し出すなど誰にでも出来ることではない。しかし、もっと驚いたのはこの後だった。」

「何か…しでかしましたか…私は…」

「ハハッ!覚えておらぬのか?…お前は子供たちに説教を始めた。悪いことをすれば悪いことが返ってくると。その時初めて気が付いた。お前は知っていながらわざと罠に掛かったのだと。そして、泣き始めた子供たちを抱き締め、飾り物すべてを子供たちに渡して笑顔で立ち去った。

…その夜、お前の笑顔が頭から離れず、眠れぬ夜を過ごした。」

「シン様…」

「お前の優しき心に惚れたのだよ。次の日、お前を捜すために街へ出た。どこを捜しても見付からず10日経った。もう会えぬと諦め、酒場で酒を飲んでいたらお前が現れた。酒場の店主に聞くと娼館の女で、いずれ店に出すと。そこで私はシムトラトプテに話を持ち掛けたんだ。」

「いざ会えば、どこか寂しげに笑う。身体を見れば、いろんな苦労を重ねて生きてきたと知った。お前を我が手で守りたいと思った。」

「シン様…美化するのはおやめください…わたくしは大層な者ではございませぬ。」

「…お前に惚れたきっかけを話しただけだ。」

「そのような…」

「ムトナ。私は丸ごと受け止める。お前のすべてを…だから行かないでくれ。私の側に。」

「……………」


シン様の心。

自分の心。

忠義を誓った心。

その3つの心が首に絡まり、苦しい。


「シン様…!」

「………よい。戯れ言だ。」

「申し訳ございませぬ!」


恐らく、時間の問題。

このままシン様と共に過ごせば、私もこの方に惹かれていくのが分かる。

現に、シン様の思いを聞いて、ここまで苦しいのだから。

でも、私にはその時間さえない。

シン様と過ごす時間さえ惜しいと思う気持ちの方が大きい。


「…分かっておる。私はネフェルタリ様より上にならねば、お前を引き止めることさえ出来ぬと。

今の私では…無理な話だ。お前に惚れた男の戯れ言を聞いてくれてありがとう。」

「シン様!わたくしは…」

「愛する女を手離すことは辛いな…」


シン様は私に覆い被さると、初めて激しく抱かれた。

いつもは優しいシン様が、行き場のない心の内をぶつけるように。

そして、呟くように繰り返される言葉。


「ムトナ…愛している…愛している…」

「はっ……シ……ン様……ッッ!!」


狂った獣のように激しく。

しかし、その手は暖かく。

何度昇ろうとも、何度果てようとも

シン様はお許しにならなかった。

気が付けば辺りは明るくなり始めていて、一晩中シン様に狂わされていた。

私が身を起こすとシン様も目を覚まされ、共に湯殿に入った。

お湯を掛け合い、身体を洗い合い。

しかし終始無言で。

シン様を見れば、穏やかだが切ない表情。

とても楽しく悲しい一日だった。

愛と呼ぶ感情が私にあるのならば、私が一番最初に愛した人はこのお方かもしれない。

きっと生涯忘れぬ出会い。


「…ムトナ。」

「はい。」

「行くところは決めたのか?」

「大まかには決めております。…とりあえず、テーベ中心部に向かいます。」

「首都へ?ネフェルタリ様に謁見するのか?」

「いえ、まさか。…ネフェルタリ様をよくご存知の方がおりますゆえ、ご様子の詳細をお聞きしに伺います。」

「…そうか。…お前には、もう一度会える気がするな。」

「そうですか?…でも、シン様の予想は当たりそうで怖いですね。もう少し立派な女性に成長していれば良いのですが。」

「…これ以上立派になるな。蝿が(たか)るわ。」

「………蝿?」

「…詮索するな。ただの嫉妬だ。」

「蝿が?…面白いことおっしゃる。蝿など手で払いますゆえ、ご心配あらず。」

「…鈍感女には通用せぬか…はぁ…」

「シン様。鈍感女とはわたくしのことですか?」

「お前以外に誰がいる。…もうよい。支度と挨拶を済ませて表で待っていろ。私が送ってやろう。」

「いえ、そこまでされずとも」

「送りたいのだ。送らせてくれ。」


そう言って、2階の窓から飛び降りて行ってしまわれた。

荷物を纏め1階に降りると、店のお姉さんたちとお母さんが待っていた。

床に膝まづき、頭を下げる。


「お母さん、みなさん。長い間、お世話になりました。…今から目標に向かって進みます。このご恩は忘れません。必ず恩返しに戻って参ります。ありがとうございました。」

「…ムトナ…本当に行くのか?」

「はい。」

「そうか。…ほら、お前の金だよ。」


多すぎるほどのお金を渡される。

シン様の愛と思いの表れ。

生活費、食費、チャーター費、人件費、いろんなものを計算し、余分に取った後の残りをお母さんに渡す。


「お母さん。残りはお店とみんなのために使ってください。」

「ムトナ!それはダメだ。シン様に失礼じゃないか?」

「きっとこうなることを見越して多く貢いでくださったんです。これはわたくしのお金。どう使おうとわたくしの勝手でしょう。新しいお洋服やお化粧に使ってください。」


みんなは何度も礼を言い、そして涙しながら見送ってくれた。

外に行けば、シン様が騎馬に跨がって待っていて、共に出立した。


「どこまで行けばよい?」

「ナイルの辺りまで。」

「川を下るのか?」

「はい。そのお方は、ナイルと一緒にお住みですから。」


当時のエジプト貴族は、ナイル川の畔に家を建て、移動手段として舟を多用していた。

家の舟を持っている家ほど裕福というわけだ。

その家の造りは珍しく、川に面した大きな扉を開けると、舟に乗ったまま家の中まで入れた。

便利性を考え外敵の襲撃に備えた、まさに一石二鳥の造りである。


「シン様、ここら辺で。」

「ああ。」


沈黙を破り、別れの合図を送る。

馬を降りると、シン様は私を抱き締めた。


「…金は全部持ってこなかったのか?」

「多すぎますし、重たいです。」

「やはりな。…気を付けていけ。」

「はい。シン様。いろいろとありがとうございました。シン様も、御身を大切に。」


唇に落とされたキスは、少ししょっぱかった。

後ろ髪を引かれる思いで川面近くに移動し、舟をチャーター出来ないか船頭に交渉。

二時間後なら開いているが、それより定期船の方が早いということだったので、次の定期船に乗ってナイルを下った。


新たなる出発。

爽やかな風が揺らぐ、気持ちのよい日だった。

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