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恐らくこの男、軍将校クラス。
軍人として長年鍛えられ、そして正規軍として認められた。
国を思う気持ちは、他の誰より強い人物だろう。
そんな人に、後悔を思わせるような一言を言わせるのは、現ファラオのセティ様だ。
いろんな場所での建築をしているのが間違っているという意味ではない。
その目的は、民に仕事を与えるためだろう。
そうすることで、民は潤い国も潤う。
しかし、軍人は戦場へ向かわない。
国中から集められた精鋭部隊が正規軍。
その手腕を発揮できずにいる。
戦争は、ラムセス様の軍ばかり。現状、ラムセス様の軍が正規軍になるのは近い将来だろう。
勝利も敗退も経験することで、軍は強固になるのだから。
「ムトナ。」
「はい。」
「ラムセス様を知っているか?」
「ラムセス様?聞いたことあります。」
「ラムセス様は皇太子殿下候補のお一人だ。」
「王子様ですか?」
「ああ。」
溜め息を吐きながら私を抱き締める力を入れた。
「ラムセス様は軍を率いて最前線におられる。王子とは思えぬ行動派のお人だ。」
「…王宮にはいないんですね。」
「昔からそうなのだよ。宮殿という鳥籠を嫌い、自由に国をお守りくださる。屋敷を他に建て、誰よりも逸速く行動できるようにしているのだ。他の王子殿下とは一味も二味も違う。セティ様の後継者はあの人に決まるだろう。」
「尊敬しているんですね。シン様。」
「ああ。…だが、戦況が思わしくない。ラムセス様が苦しんでおいでだ。なのにセティ様は負け戦だと判断されて出向こうとされない。」
(…ラムセス様!ネフェルタリ様!!)
お二人の苦しんでいる状況が目に浮かぶ。
最前線はエジプトの苦戦。
現ヒッタイト皇帝は、誰より戦争上手とオリエント中に噂が流れていた。
賢帝ムルシリ2世。その偉業はエジプトにも届くほど、他の誰をも寄せ付けない抜きん出た存在だった。
「…ムトナ。なぜ泣く?」
「だって…」
…しまった。
お二人のことを考えすぎていた。
目の前には心配そうに覗き込むシン様。
「だって…なんだ?」
「シン様のお気持ちを思うと…」
「私の気持ち…とな?」
「はい…シン様は、本当はラムセス様をお助けしたいんでしょ?なのに出来ないって自分を責めてるんだ。」
「……………」
「ラムセス様のお側に行けばいいのに。」
(行って、助けてください!)
願いを込めてそう言った。
でも、シン様は首を横に振る。
「ムトナ。そうしたら、誰がファラオを守るんだ?出来ないんだよ。」
「シン様!」
「お前は本当に優しい女だ。」
辛そうに顔をしかめながら、私を抱き締める。
シン様は、自分の辛さと戦っていた。
やるべきこと、やりたいこと。
その狭間で苦しんでいた。
だから娼館に来たのかもしれない。少しでも快楽に溺れ、苦しみを忘れるようにと。
シン様は、本当に優しく丁寧に導き、私を気遣いながら抱いてくれた。
「ムトナ。どうだった?」
シン様がお帰りになられ、怠い身体を起こせずにいたら、お母さんが部屋に入って声を掛けてくれた。
「……………」
「今日はもう休みな。この部屋はお前に貸しておくから。」
「…いえ、大丈夫です。」
「本当かい?じゃあ立ってみな。」
「はい。……え?あれ。」
「ほれみろ。無理はしない。」
「…はい。申し訳ございませぬ…」
「暫く休んでいなさい。」
「………お母さん。」
「うん?なんだい?」
「痛かった…凄く痛かった…怖かった…」
「……ああ。」
「でもね…シン様は優しかったのは分かる。いっぱい大丈夫か?って聞いてくれました。お母さんのお陰です…お母さんがいい人を選んでくれたからです。ありがとうございます。ありがとう……」
「…ムトナ…ほら、おいで。」
「…うわぁあーーーん!!お母さん!!」
「よく頑張った。」
お母さんに抱き付いて、泣きまくった。
人間として
誇りを持った仕事人として
守ってきたすべてのものに対して
プライドを打ち砕かれた気がした。
笑顔のネフェルタリ様
凛々しいラムセス様
ご夫婦の笑顔が、割れたガラスのように飛び散った気がした。
でも、これでいい。
私は出来ることをやると決めた。
私の決意は変わらない。
ネフェルタリ様とラムセス様の御為に。
「…すみません。ありがとうございます。」
「大丈夫だ。落ち着いたか?」
「はい。」
「休みなさい。さ。横になって。」
「はい。」
ーーこれで後戻りは出来ないーー
気合いを入れ、頑張ろうと気合いを入れ直した翌日。
「ムトナと申します。」
「……知っている。」
「……え?」
目の前にいたのはシン様。昨日も来てくださったのに、今日も…?
「シン様。ど…どうされたんですか?」
「はっはっはっ!やっぱり面白い奴だ!どうされたって何なんだ?私がここに来てお前を名指しした。なんの不思議がある?」
「え?だって…」
「娼館だろう?男が女を買って何が悪い?」
「………ですよね。」
「ほら、今日は何を食う?頼んで来い。」
「え!いや!昨日はすみませんでした!無駄な出費をさせてしまいまして!」
「……何を言っているんだ?」
「だって!割高になっているって!私、知らなくて…頼んじゃって…」
「そんなこと。…お前は気にするな。私が食べたくて頼んでいるんだ。お前はおまけだ。」
「お…おまけ?」
「そうだ。ほら、今日はワインを持ってきた。共に飲もうぞ。」
「おまけ……いっぱい頼んでいいですか?」
「ああ。」
…おまけだって。優しいお方だ。
私のせいじゃないって庇ってくれてる。
「ムトナ。身体は大丈夫か?」
「はい。大丈夫です。」
「そうか。……嘘のつけない奴だな。」
「あれ。そういうものは上手な方だと思いましたけど…可笑しいですね…」
「おいで。酌をしてくれ。」
「はい。」
気になって来てくれたのか?
そう思っていると、抱き締めた腕が強くなった。
「お前は最高の女だな。ムトナ。」
「…………?」
「私のことを気遣ってくれたのはお前が初めてだった。…リップサービスでも嬉しかったよ。」
「……………」
「昨日、お前がいろいろ聞いてくれたからか、夜は久し振りにぐっすり眠れた。身体も頭もスッキリした朝を迎えられたんだ。」
「本当ですか?…良かったですね。」
「ああ。だから今日はお前の番だ。」
「…え?」
「お前の話を聞きに来たんだ。」
…これって…お客さんだよね?
どういうことだろう?私の話?
「シン様?…あの……されないんですか?」
「んーー?…ではこうしよう。」
ベッドの上に移動すると、横になって私を包んだ。
「今日はこれでいい。一緒にこうしてくれればいいから。」
「いや、娼館ですよ?ここ。」
「お前の時間は私が買っているんだ。この部屋で何をしようが私の勝手であろう?」
「………ですよね。」
「…お前のような綺麗な女も、お前のような純粋な女も、今までに見たことがない。幼い少女のように見えるが、芯の太い何かを持って生きているようにも見える。
…お前はなぜ、ここで働いているんだ?どこに行っても遣り繰りできるだろう?」
「…お世辞が上手いですね。何も出ませんよ?」
「本音を言っている。どこか気品の漂う女だ。なのにこの鞭の痕は…奴隷なのか?」
「……ご想像にお任せします。」
「…私には言えぬのか?」
「そういうことじゃないです。第一、私はシン様のことを何も知りません。昨日今日お会いした方なのに。」
「……………」
「シン様に対して失礼なことです。そんなこと出来ません。」
これ以外に、どんな言い訳が通用するだろうか?
相手はお客様。
思い話など出来るはずもない。
もとより、言うつもりもない。
「では、これだけ教えてくれ。お前はずっとここで暮らすつもりなのか?」
「いいえ。」
「…どこに行く気だ?」
「分かりません。…ここには大変お世話になっていますが、目標金額が貯まったら直ぐに出ていきます。おかみさんともそのように話しています。」
「…そうか。」
優しく背中を撫でられながら、緩やかな時間を過ごす。
暫く黙ったと思えば、穏やかにこう言った。
「ムトナ。ではこうしよう。」
「はい?」
「お前が出ていくその日まで、私がお前を毎日買おう。」
「…え!?」
「こうして毎日語らって抱かせてくれ。」
「あの…嬉しいのですが…毎日など…」
「金のことなら心配するな。私は妻も子も親もない。毎日仕事ばかりで金は貯まる一方だ。」
「……………」
「それに私はどうやらお前を他の男に渡したくないらしい。」
「……え?」
「お前の気立ても、お前の身体も。すべて私が独占したいのだ。」
「…シン様…」
突然の告白に驚いた。
だって会ったばかりの人に思われるなんて。
「ありがとうございます…シン様。」
腕を抜けて、ひれ伏し、頭を下げた。
「私は…私…申し訳ございません。」
「ムトナ、謝らなくていい。私がお前に落ちてしまっただけのことだ。」
「こんな女のどこを!…でも、お応えできないのです。申し訳ありません。」
「……好きな男がいるのか?」
「とんでもない!…私は恋などした経験がありません。それに、男がいれば、この仕事を選ぼうなどと思いません。纏まったお金が必要だった。それだけです。」
「男がおらぬのなら、私が立候補しても良いではないか。なぜ謝る?」
「…それは…申せませぬ。ご無礼をお許し下さいませ。わたくしは……!!」
謝ることに必死で、気が抜けていた。
ハッ!となって言葉を止めた。
「……ムトナ。」
一段と低い声で発せられた。言葉に怯え、ごくりと唾を飲んだ。
「……お前は貴族の出か?」
「いいえ。」
「その言葉遣いが自然に出てくるとは、高い教養を兼ね備えていると見た。」
「……………」
「貴族ではないと言うのなら、貴族に仕えていた侍女であろう?正直に答えよ。お前の主人は誰だ?」
(…ダメだ!言い逃れ出来ない!)
出来れば隠しておきたかった事実。
正規軍であるシン様は、首都や王宮にも行くことがあるだろう。
私の存在がバレない保証はない。
「…ムトナ。他言はせぬ。安心いたせ。」
「…!!」
心臓が壊れそうなほどの緊張感。
しかし、それを収めてくれたのは穏やかな声。
シン様の顔を見上げると、少し笑っておいでだった。
「…申してみよ。主人は誰だ?」
「……………」
「ムトナ。」
「……参りました。申し上げます。
…王子殿下ラムセス様が第一正妃、ネフェルタリ様でございます。」
「…ネフェルタリ様…とな?」
「はっ。」




