3-2
その日から、この娼館で一生懸命働き、一生懸命食べた。
また六月ほどの時間をかけ、時には、働いているお姉さんたちからいろいろ教えてもらった。
女らしい女、魅力ある女を目指して磨きをかけ、自分なりに男の誘い方を勉強する。
「シムトラトプテ。ムトナはまだ出さないのかい?」
「お前のような野蛮人には預けられないね!」
「あ!ひでーー!!」
「この子を上げるときは、金をはずんでくれる紳士と決めてるんだよ!とっとと失せな!」
「…はは!またね!デシュプ。」
「ムトナーー!」
「コラ!ムトナに触るんじゃない!」
勉強し、実践に向けて客に対する色の使い方を入り口で実践。
すると、こうして私目当てで来る客も増えてきた。
「これ!ムトナ!」
「はい!」
「勝手に客引きをするんじゃない!」
「ごめんなさい。」
「まったく…ま、半年でえらく化けたな。ここまでの上玉は久々だ。」
「上玉!?わたくしが?」
「…お前の目は自分を見ないのか?お前ほどの美貌、そうそういないぞ。」
「び…美貌!?わたくしが?」
「…何と言うか…鈍感だ。」
「……………」
なんか、呆れている…かも。
こんなこと言われたのは初めてで、ちょっと戸惑っていた。
「しかし…お前はそこまで客を取りたいのか?」
「…わたくしの願望はただ一つです。それが叶えられるなら、この身体は要りませぬ。」
「…本当に…お前の主人が見てみたいよ。ここまで惚れている人なんだろうね。」
「はい。女神様です!」
「はは!聞き飽きたわ!」
私が急ぐ理由は他にもあった。
このところ、ネフェルタリ様第二子ご懐妊との噂が流れていた。
喜ばしいことを聞き、首都に向かってご無事であるように祈りを捧げた。
とはいえ、ラムセス様の噂が不快なものばかり。
建築に重きを置いて活動されていたセティ様が、やっと思い腰を上げて、皇太子選びに励んでいるという。
やっと王家世襲を取り入れた王室で、ラムセス様のお兄様たちは早くにお亡くなり遊ばれた。
ラムセス様有利かと思われた皇太子選出だったが、異議を申し立てたのが弟君たち。
恐らく、その弟君たちが結託して悪話を計略、エジプト中が、ラムセス様の悪口を言っていることを知った。
弟君たちが流していると予想出来たのは、遠征でラムセス様がエジプトを離れているときに起きている噂だからだ。
ネフェルタリ様は、さぞ心を痛めておいでだろう。
それから、連戦続きのラムセス様。
とうとう攻め込んできたヒッタイトの相手は、武術も大事だが知略も大事だと忘れておられるような無茶ぶり。
シリア攻略を先決せねば、何度戦っても同じだろう。…カエムワセト様は何をしておいでか!
「…まーた何か考えてるな?ムトナは心配事がありすぎる。」
「ごめんなさい。軒先の掃除に行ってきます!」
ああ見えて勘の鋭いお母さん。
この六月、ずっと私から目を離さずに見守ってきてくださった。
だからこそ分かる表情変化。
(早く…テーベに行かねば)
それだけが頭を支配していた。
ネフェルタリ様の元を去って、もうすぐ一年になろうとしていた。
焦りが募っていく自分を隠せずにいたある日、お母さんが私を呼び出した。
「ムトナです。」
「お入り。」
「失礼します。」
窓から溢れる月と星の光。
それを切なそうに眺めていた。
「…ムトナ。」
「はい。」
「私はね、お前が可愛くてしょうがないんだ。」
「…ありがとうございます。」
「この数ヶ月一緒にいて、お前が本物の娘のように思えてならない。」
「……………」
「お前を商品として店に出せば、たちまち人気者になるだろうよ。美人で気立てもよく、辛いことから目を背けず、真っ直ぐに生きている女は少ない。身体も心もお前に溺れる男がたくさんいるだろう。」
「……………」
「儲かると分かっている。…でも、私はお前を出したくない気持ちになっている。」
「お母さん…」
お母さんの本音。嘆きの声だった。
こんなに暖かい人は、ネフェルタリ様以外見たことがなかった。
親も兄弟も知らず、買われた家では物としてしか扱われなかった。
商売道具として買われた私は、人の温もりなど知らずに育った。
ただ、不興を買わないように人の目を気にしていたため、誰より出来のいい子になった。
そんな私に手を差し伸べてくれたのがネフェルタリ様だった。
汚れた者と卑しめられた私に触れ、
『同じ人間ではないか。どこが汚れているの?あなたが汚れているなら、同じ人間の私も汚れた者。人間は誰も汚れてない。下級層の者でも汚れておらぬ。…お前はわたくしの友となって生きていくのだ。』
そう言ってくれた。
笑えるようになったのも、感情を引き出してくれたのも、すべてネフェルタリ様のおかげ。
ネフェルタリ様以外に、こんな優しい人に出会えるなんて思わなかった。
「…お前が店に出れば、お前の欲しい金額など数日あれば手に入る。
…そうなれば、お前は行ってしまう。それが悲しくて仕方ない。」
「お母さん!」
「…でも、お前の心には忠実を誓った女神様がいるんだろう?私は…お前を引き止めることは出来ないのか?」
「…………っ!」
「……悪い。今のは卑怯だったな。」
お母さんはそっと頬に触れ、流れる水を掬いとった。
この感情を人はどう呼ぶのだろう?
…どう呼んでもいい。
お母さんが私に抱いているのは親の愛情だ。
私が知り得なかったもの。
こんなにも暖かい感情。
「…明日、お前を店に出す。」
「!!」
「ある軍人さんがいてね。お前を大層気に入られた。…生娘ということもあり、謝礼ははずんでくれると。」
「…はい。」
「初めては痛むだろう。怖いと思うだろう。そういうこともすべて言ってある。身を任せていればよいとおっしゃった紳士な方だ。頑張れるか?」
「はい。」
「じゃあ今日は休みな。行ってよし。」
「…ありがとう。お母さん。」
お母さんは、一生懸命考えて、相手を選んでくれたのだと分かった。
どうしても捨てきれないネフェルタリ様への忠実は、お母さんの心を苦しめてしまった。
ものすごい罪悪感でいっぱいだった。
だけど、私にはやらねばならぬことがある。
翌日。
「ムトナと申します。本日はありがとうございます。」
個室に入り、客に頭を下げて挨拶する。
「やっとお前に触れられる。近くへ。」
「…はい。失礼します。」
隆々とした筋肉。
訓練してきた肉体。
経験を物語る刀傷。
紛れもなく軍人だ。
近くに座り、甘えるように肩にすり寄る。
そして手を握って、力を込める。
(この男…弓兵隊…)
指のマメが教えてくれる、弓兵隊独特の痕。
弓兵隊と分かって、一瞬ラムセス様を思い出すが、この男の着ている胸当ては、ファラオ正規軍のもの。
「…緊張しておるのか?」
「…とても…」
「愛い奴だ。…酌をしてくれ。」
「はい。」
「暫し、語らっていよう。」
本当に紳士な方だった。
でも、軍人、正規軍。
私にとっては、格好の餌食だった。
共にワインを飲み、ほろ酔い気分になったところに話のきっかけを切り出す。
「お名前は何とおっしゃるんです?」
「名はシンアブビルハ。シンと呼べばよい。」
「シン様。いいお名前。…軍人さんとお聞きしました。さぞお辛い経験もされているんでしょうね。」
「お前に何が分かる。」
(しまった…怒らせたか?)
度々眼光が鋭くなるのにも気付いていた。
軍人の警戒心は甘く見れない。
「何も。」
「は?」
「何も分かりません。」
「……………」
躊躇したが、言葉は一瞬の静止。
言い換えれば、思いもよらないことを口に出せば、相手は怯むものだ。
「だから勘で言うしかないでしょ?シン様は女が戦場に行けるとでも?」
「え…いや…」
「国のために戦っている軍人さんは、いつ死ぬか分からない恐怖にも戦わないといけない。とか。こんな刀傷…痛かっただろうな。とか。それでも頑張って戦ってるなんて凄いな。とか。あとは
……えーーと。」
「プッ!はっはっはっ!!面白い奴だ!!」
「面白い!?シン様?わたくしは真面目に言ってるんですよ!」
「分かった分かった。そう怒るでない!はっはっは!」
「もう!いいよ!シン様はずっと笑ってればいい!」
(き…切り抜けた…)
内心はヒヤヒヤもの。探ってるとバレたら、一瞬で首と胴が離れてしまう。
「ほら、こっちに来い。そうだ、お前も何か食べるか?好きなものを頼め。」
「え?いいんですか?」
「ああ。」
「やったぁ!シン様大好き!…シン様は何か食べます?」
「お前と同じものでよい。早くいってこい。」
とにかく、この男の不信感は取り除けたはずだ。
あとは、最前線の状況を聞き出せばいい。
それで、ラムセス様のことも分かるはずだ。
「……ん?」
…と、料理を頼みに降りていくと、怪奇な表情をしたお母さんとお姉さまたちが私を見ていた。
「みなさま、どうかなさいましたか?」
「…今、お前の部屋からバカ笑いが聞こえてきたが…」
「え?…ああ!お客様と話してると、なんか、腹抱えて笑い始めちゃって。」
「……はぁ!?」
「大丈夫です。粗相は致しませぬ。…お料理頼んできていいって言われました。お願いできますか?」
「…初めてのくせに…料理まで…?」
「……ん?変なんですか?」
「いや…ちょっと待っていろ。」
後から聞いた話では、初めての客から料理など頼まれることは一切ないらしい。
娼館で金を落とすことは、お気に入りの証拠だとか。
料理や酒を頼むと、その一部が娼婦に流れるシステムらしい。
そのために、割高になっているとか。
そんなこととは露知らず、食事を手に部屋へ戻った。
「シン様。お待たせ致しました。」
「本当に待ったぞ。」
「ごめんなさい。…これ!すごく美味しいんですよ!食べてみてください!」
「ん?…どれ。」
あくまであどけなく、元気に振る舞いながら。
料理を手で掴んだときに、ハッ!と気付いたフリで。
「わぁ!!シン様!!」
「ん?どうかしたか?」
「それ!何!痛い?大丈夫ですか?」
「ん?…ああ、これか。痛くない。」
「痛そう…ヨモギをひいてきましょうか?本当に大丈夫です?」
「お前は優しい子なのだな。もっとこちらに。」
「はい。」
引き寄せると、その胸に凭れたように身体を預けるよう私を片手で抱き締めた。
「気持ち悪いか?ムトナ。」
「ううん。痛そうだなって思っただけです。腫れてる感じだったから。」
「これはな、長年弓を引いてきた者が手に出来るマメだ。同じ場所が何度も擦れて出来る。」
「へぇ…あ、じゃあシン様は弓兵隊ですか?」
「そうだ。」
「ここまで大きなマメなんて。…練習を重ねて、戦争でその成果を出して。…素晴らしいお方。」
「…成果など…」
「シン様。生きて戦場からお戻りになられているだけで、成果を出されたと思いません?成果が出てなければ直ぐに死んでしまいます。」
「…ムトナ、私はファラオ正規軍なんだ。ファラオの指揮下のもとでしか動けない。意味が分かるか。」
「んーー…ファラオ次第ってことですか?」
「ハハッ!…おなごにはちょっと難しいか?」
「えっと…ファラオが動けってこと?ああーん。分からないです!」




