12-2
その半月後、私はエジプト軍の進行方向へ先回りして、北シリアのとある街に着いた。
「なぁ、聞いたか?ムワタリはエジプト開戦に備え、歩兵を二万も出してるんだとよ!」
「聞いた聞いた。戦車も三千はあるとか。」
街の人の会話を聞きながら情報を整理していく。
本格的な遠征軍を率い、ムワタリは本気モードだった。
エジプト親征軍はヒッタイトの軍より数が劣る。
しかし、今さら引き返して軍を纏めることなどしないだろう。
きっとこのまま開戦を迎える。
数で劣勢ならば、知略で攻略する。
ラムセス様にはカエムワセト様がついている。
様々な方法を考え、エジプトを導くことだろう。
「それなのに、引き返したんだろ?」
「ああ。俺もそんな噂を聞いた。」
「ムワタリは何を考えてるんだ?」
「さぁ。お偉方の考えは分からん。」
(……どういうことだ?)
後ろで話していたおじさんたちの会話に、耳を疑うような情報。
(…確かめた方がいいな…)
優勢のヒッタイトが退軍したとは信じがたい。
しかし、街の人たちはみんなその噂を知っている。
みんながここまで噂しているならば、そのうちエジプト軍にも届くだろう。
その前に…と思い、確認のため馬を走らせた。
「ヒッタイト軍?ヒッタイトもエジプトもそこらにたくさんいるよ。」
「あ、それは知ってるけど。変な噂聞いて。」
「変な噂?」
「はい。ヒッタイト軍が退軍したとか。」
「それのどこが変なんだ?」
「変っていうか腑に落ちないっていうか。」
「まぁ、戦には最強とも言える砦を捨てたってことは聞いたよ。確かにおかしいけど、ムワタリの考えなんて分からんさ。」
北へ、北へと進み、人がいたら話を聞くの繰り返し。
行き交う人は、街の住人だろうが商人だろうがその話をしていた。
やっぱりおかしい。
ラムセス様が弟君たちの企てに引っ掛かったときと似ている。
噂は噂を呼ぶものだ。
真実を隠すために扇動した誰かが持ち込む噂ほど急激に広まり、民が信じてしまう。
馬を走らせ半日。
カデシュという街の外れに着いたとき、そこに集結しているヒッタイト遠征軍を見付けた。
(やっぱり…)
嫌な予感は当たっていた。
ヒッタイトは退軍しているわけではなく、カデシュを中心とした城塞を築いている真っ最中だった。
旗印はムワタリのもの。
ラムセス様をここで迎撃する気なんだ。
近いうち、ここは戦場になる。
しかしなぜ、あのような噂を流したのだろうか。
ラムセス様やカエムワセト様が偽情報などに惑わされるはずもない。
(…待てよ…)
今、エジプトは乗っている。
シリアを手に入れ、次々と都市を落として進軍してきた。
退軍したという情報は、手薄になった場所を攻める絶好の機会。
ラムセス様は、ヒッタイト本隊と戦う前に、確実に手に入れられる都市を陥落させようと考えるんじゃないのか?
(……!!いけない!戻らなきゃ!!)
慌てて騎馬に乗ると、南へ向かって走り出した。
時を遡ること五日。
エジプト陣営では、ラムセスがヒッタイトの斥候を捕らえ折檻していた。
「なかなか口の硬い奴だな。スパイとしては上出来だ。」
「ぅわぁああああ!!!」
「だがここはエジプト軍だ。俺が今知りたいのは、ヒッタイト軍がどこにいるのかだけだ。言えば苦しみから解放してやる。」
「…誰が言うか!!……ああああああ!!」
小さな石を練り込んだ鞭は、一つ叩けば肉が抉れ、二つ叩けば肉がこそぎ落とされる。
ラムセスはそういう鞭を使い攻めた。
その斥候の身体は血塗れで、そこら中に肉片が散らばっている。
それでも死なないのは、側に控える部下が、焼き印を熱していたから。
肉がこそぎ落とされると同時に血飛沫が飛ぶ。
その傷を焼き印で焼き、止血をさせていたからだ。
片方の耳は既に落とされ、縛り付けた腕を落とそうと剣を抜いた。
「ま…待て!!アレッポだ!!アレッポにヒッタイトは集結している!!」
「本当か?」
「本当だ!!」
その目は恐怖に怯え、とても嘘を考えるほどの思考を巡らせる状況ではないと判断した。
「……殺せ。」
「はっ。」
断末魔の叫びを背後に聞きながらテントの外へ。
「お疲れさまです。何か収穫はありましたか。」
「どうやらアレッポにいるらしい。」
「アレッポ…妙な情報ですね。」
「どうした?あの犬に余裕など与えてはおらぬぞ。」
「斥候の話では、街の住人はヒッタイト軍が退軍したと噂しているようです。」
「…では真実だろう。進軍して手前にあるカデシュを手に入れよう。」
「お待ちくださいファラオ!懸念材料が多すぎます!せめて斥候の報告を待ちましょう!」
「好機を逃すわけにはいかぬ。」
「ラムセス様!噂で痛い目を見た過去をお忘れですか!慎重になるべきです!」
「戦争は臨機応変に対応するのが常だ。戦況はコロコロと変わってしまうからな。お前は慎重になりすぎる。早く戻ってネフェルタリに会いたいからな。」
進軍を決意したラムセスを止められず、ただ胸騒ぎがするカエムワセト。
「せめて、殿の隊へ。」と、本隊に加わることをやめよと進言するので精一杯だった。
ラムセスは渋々了承し、カデシュに向けて出発した。
時を戻し、ムトナへ。
馬を走らせてほんの少しの時間。
「……嘘でしょ!!」
そこには噂を信じたと思われるラムセス様の遠征軍に出くわした。
このままいけば、カデシュで戦争になる。
エジプトは城塞都市を陥落させるという目的。
しかし、迎え撃つのは、国を争う本隊同士の戦いだ。
準備なくして戦って勝てる相手ではない。
あの噂を信じたというのか?
確たる証拠も見ぬままに?
このままでは負けてしまう!!
カデシュから出てくる旅商人たちに話を聞きながら走っていた私は、ある程度の状況を把握していた。
ムワタリは、カデシュの街の中に別隊を配置。
本隊は城塞の外で待機し、エジプトの進行方向からは見えない場所にいる。
そこはオロンテス河畔の向こう側。
(このままいけば、側面から攻撃される!)
エジプト本隊が城塞を囲もうとしたところ、城塞をグルリと迂回したヒッタイト軍が、続く隊の側面をつくことになる。
さすがムワタリ。戦争上手の異名を持つムルシリ二世の息子と言ったところだ。
連なる崖上へと登ると、エジプトの遠征軍を左に見ながら馬を走らせ、ラムセス様の旗印を見付けようと目を凝らす。
いつもは最前にいて自ら戦われるお方。
本隊を中心に探すも、見付からず。
(ここにはいない!?後続の隊にいる?)
いつもとは違う配置に驚きながら南下していく。
…長い隊列。
約17,000の歩兵隊は、途切れることを知らない。
そして、戦車隊が続く。
ようやく最後尾の殿の隊に、ラムセス様の旗印を見付けた。
ちょうど、崖が終わる目前。
馬から降りると、その崖の端に立つ。
「ラムセス様ぁああ!!進軍はおやめください!!これは罠です!!」
大声を出して叫ぶも、足音と蹄の音でかき消されているのか、全く反応がない。
直ぐに弓矢を取り出し、ラムセス様が乗っている戦車に向けて矢を放った。
放たれた矢は、ラムセス様の乗っている馬に命中。
しくじった!と思いつつ、痛さに暴れる馬が落ち着くのを待つ。
矢に気付いたのは、隣に控えていた愛する夫、カエムワセト様。
遠く離れていても、そのお姿を忘れはしない。
刺さった矢で飛んできた方向が分かったのか、私の方を見上げた。
こんなときに見つめ合えている…
そう思ってしまう私はバカかもしれない。
気を取り直し、身体を大きく動かすと、カエムワセト様もラムセス様に声をかけた。
ラムセス様がこちらを見上げた。
それを確認すると、鞄の中からパピルスと筆を取り、状況を書いて矢に結び放つ。
今度は上手くラムセス様の足許近くに刺さり、カエムワセト様が回収に向かった。
それを開き見るや、ラムセス様は大声で叫ばれ、前方へ馬を走らせた様子。
その伝令の姿を見ていたら、目の前の木に矢が刺さった。
矢にはパピルスが巻かれており、目下にはラムセス様とカエムワセト様がこちらを見上げていた。
《ムトナ、直ぐに戻れ》
短く書かれたその手紙の筆跡はカエムワセト様のものだと分かった。
お二人に深々とひれ伏した後、北へ向かった。
しかし、時、既に遅く。
ムトナの読み通り、ヒッタイトはオロンテスを渡河し、城塞を回り込んでラムセス親征軍第二隊の側面を奇襲攻撃した。
第二隊は壊滅、慌てて引き戻した本隊は、待ち伏せていた別隊にやられ、ほぼ壊滅状態だった。
「遅かった…ラムセス様…カエムワセト様…!」
崖の上から離れず、馬だけを逃がして身を潜めて戦況を見守っていた私は、エジプトの敗戦を見せつけられていた。
このまま戦っていても、無駄に命を落とすだけ。
しかし、ラムセス様の指揮は、やはり優れていると理解できる戦況。
圧倒的に数を減少させたエジプトなのに、逃げ帰るのではなく、ゆっくりと後退を始めた。
(何だろう?…何か策があるのか?)
自分なりにいろいろと考えるが、来たときの半数以下にまで人数を減らされていたエジプトに、逆転の余地はない。
どう考えても勝ち目が見えない戦いだった。
しかし、粘りに粘っているエジプト軍。
ラムセス様とカエムワセト様は、何を考えているのか。
答えが見つからないまま見ていると、北から土煙が上っているのが見えた。
目を凝らしてそれが何なのか確認する。
「……!!ベシナンテ!!
…そうか!これを待ってたんだ!!」
その軍団は北シリア王国ベシナンテ率いる軍団だった。
南のエジプトへ後退していたラムセス様の軍は後退をやめ、今度はゆっくり前進する。
北からはベシナンテの軍が南下し、挟み撃ちの状態となったヒッタイトは、カデシュ城塞に立て籠る以外なかった。
十分な数の兵を持っているのならば、ラムセス様は負けないだろう。
たとえ戦争上手ムルシリ二世の息子だとしても、こういう場合経験がものを言う。
百戦錬磨のラムセス様。
十代前半で武勇を認められ、長年第一線で軍人として戦ってきた。
そして、側に控えるカエムワセト様の知略を越えられるものなど誰一人としていないのだ。
案の定、膠着状態が続いた戦争。
数日後、ムワタリは停戦を申し入れ、ラムセス様はそれを受諾した。




