11-2
走りながら涙が流れ、必死にネフェルタリ様に助けを求めている。
そのドアが見えると、大きく叫んだ。
「ネフェルタリ様!!姫様!!ムトナです!!」
答えが聞こえぬうちにドアを開け放ち、中へと入る。
正面にいるネフェルタリ様のお姿を捉えると、一目散に走り抱き付いた。
「ネフェルタリ様!…お助けくださいませ!わたくしはどうすればよいのですか?」
「…ムトナ!…落ち着いて。」
「苦しいんです!辛いんです!!」
「ムトナ、泣かないで落ち着きなさい!この場はどこか忘れたのか?お前は我が従者。弁えよ。」
「……え?…だって……」
「……後ろを見なさい。」
ハァ…と溜め息を吐いたネフェルタリ様。
どことなく呆れているような感じ。
言われた通り振り向くと、そこにはラムセス様とカエムワセト様が立っていた。
慌てて床に膝と額をつけてひれ伏した。
「皇太子殿下!申し訳ございませぬ!ご無礼をお許しくださいませ!!」
「…ライオンが入ったかと思ったぞ。ネフェルタリ、お前は落ち着きすぎだ。」
「ムトナと分かっていて驚きませぬ。」
「それに、近寄りすぎだ!主従の一線を引けと言っておるだろう。」
「殿下!ネフェルタリ様は悪くありませぬ!わたくしが悪うございます!どうか憤怒はわたくしに申しくださいませ!」
「…もうよいわ。面を上げよ。」
ゆっくり頭を上げると、ラムセス様が腕を組んで見下ろしていた。
……その隣にはカエムワセト様が目を丸くして。
「ワセト。」
「はっ。」
「明日以降、軍議続きになる。お前は急ぎ、その準備を致せ。俺はここにおるわ。」
「畏まりました。」
「ムトナ、お前はここにメルトを連れて参れ。」
「はっ。」
「二人とも下がれ。」
「「はっ。」」
無礼を働いたことに対して咎めなく返された。
ネフェルタリ様の手前、多目に見ていただいているらしいが、その他にも理由はある。
第一子のメルトアトゥム様を抱き、ネフェルタリ様の部屋にお連れした後、待っていたのはカエムワセト様の怒号。
「お前は…!!なんて入室の仕方をするのだ!お二人がお許しくださったから良いものを!本来ならば極刑だ!!」
「申し訳ございませぬ!!」
妻の失態は夫の責任でもある。
連帯責任として、共に首を落とされることも有り得るほどの無礼だった。
ラムセス様がお許しくださったから、こうして夫であるカエムワセト様に叱られる。
ラムセス様はそれを見越しておいでだった。
「…もうよい。戻るぞ。」
「はい。」
後宮を後にし、本殿へ向かう。
カエムワセト様から離れること五歩分。
背中を眺めながら、いまだに頭から離れないどうしようという思いが清算されず、グルグルと回っていた。
「…それで?」
「え?」
本殿に続く廊下で、カエムワセト様が立ち止まり振り返った。
「何が辛いのだ?」
「……!」
「泣くほど苦しいものとは何だ?」
「…いえ。何でもございませぬ。少々気を取り乱した狂言にございますゆえ、お気になさらぬよう。」
「…お前はいつもそれなのだな。」
「わたくしのことでカエムワセト様の煩いを増やすことがあってはなりませぬ。」
「妻を気遣って何が悪い。」
「その気遣いは無用にございます。カエムワセト様が気遣いを示すお方はラムセス様のみ。お仕事を全うしてくださいませ。」
「…ムトナ。こちらを見よ。」
冷静に言葉を繋げ、淡々と質問に答える。
言われた通りカエムワセト様を見上げると、その目は鋭さを増している。
私を探っているときの目だ。
「…お前の隠し事は見抜いて見せよう。それに、いつまでもネフェルタリ様に負けていては男としてプライドが許さない。隠し事などない夫婦に…頼る相手を間違えぬ夫婦になろうぞ。ムトナよ。」
「……左様ですね。」
(…何それ…)
そんなもの、愛し合っている男と女にしかなし得ないものじゃないか。
ラムセス様とネフェルタリ様のような。
どんなに頑張っても、カエムワセト様は私を心から見てはくれないのに。
(ウジウジ考えてどうする…)
恋に落ちれば苦しくなると初めて知ったあの日、すべて捨て去ればこんなに切なくなることはなかったのか。
結婚と恋愛を切り離せば、辛くないのか。
…ダメだ。涙が出そうになる。
この結婚は慣れたとはいえ、私にはまだ覚悟が足りなかったみたいだ。
「…ムトナ。こちらへ。」
「…申し訳ございませぬ。わたくしは用を思い出しましたので、失礼致します。」
「許さぬ。こちらへ来るのだ。」
「……………」
…夫には逆らえない。
身分も位も上で、このお方のお陰で私は生きている。
ゆっくり近付くと手を取られて抱き締められた。
ドキドキする心臓。
ズキズキする心臓。
二つが合わさり、何が何だか分からない。
「…泣くなら、私の胸で泣くがよい。」
「……え?」
「その布の下は、涙で濡れているのだろう?何があったのか申せと言っても申さぬ気なら、せめて私の胸で泣くがよい。」
「カエムワセト様…こんなことされずとも」
「二言目には否定の言葉。これも聞き飽きたわ。たまには私の言うことを素直に聞くのだ。」
「…いつも聞いております。」
「嘘をつくな。お前の首をはねることもできるほど聞かぬわ。跳ねっ返り娘。」
「…聞いております!失礼な。」
「忠義心の塊であるお前を嫁に迎えた日から、こうなることは予想していた。私より妃殿下を優先するだろうと。それは構わぬ。しかしせめて二人きりの時は私を見てくれぬか?」
「…どういう意味でしょうか。」
「そのままの意味だ。私たちは夫婦だぞ?」
「いつも申しておりますが、愛など必要ありませぬ。そうでなくとも夫婦として」
「私は必要だと思う。」
自分のいいように取ってしまう言葉。
まるで、カエムワセト様が私を愛してくださっているかのような。
「…カエムワセト様…お離しくださいませ。」
自惚れてはいけないと思い、軽く胸を押した。
静かに解かれた腕。
身体中にまだ温もりが残っている。
「ラムセス様のご命令があったでしょう?行かれなくては。」
「そんなものは直ぐに出来る。」
「いいえ。なりませぬ。ヒッタイトを攻めこむ絶好の機会ではございませぬか。急ぎ王宮に走り、近衛兵の召集と作戦をセティ様にご報告しなければなりませぬ。」
「……!…どこからその情報が…!!」
「どこからでもよいではございませぬか。あなた様は成すべき事がございます。わたくしはあなた様を支えなければなりませぬ。物事を円滑且つ確実に成し遂げるように。」
「ムトナ…」
「胸を貸していただきありがとうございます。わたくしは大丈夫です。…お行きくださいませ。」
深々と頭を下げて礼を述べ、踵を返して歩き出した。
その後ろ姿を眺めるカエムワセト。
その目は、切なくもあり射抜くようでもある。
姿が見えなくなって、ようやくカエムワセトは動いたのだった。
翌日。
「…し…シンアブビルハ…なんて男らしい…!やるわね…」
「姫様!もう!からかわないでください!」
「しかもカエムワセトまで頑張ってるじゃない!なんて鈍感娘なんでしょう!この子は!」
「鈍感ではございませぬ!シン様のお気持ちもカエムワセト様のお気持ちも知っております!」
「分かってないわね。まったく…」
…目が…生き生きしている…
やっぱり言わなければよかったかもしれない。
本気で後悔した。
「ムトナはどうしたいの?」
「……はい?」
「愛を貫くか。愛されて生きるか。どっちがいいの?」
「…わたくしは…分かりませぬ。とにかくカエムワセト様はわたくしの夫です。わたくしは生涯お仕えすると誓いました。」
「たとえ愛されずとも苦しい方を選ぶと?」
「……う……」
「本音は?」
「……カエムワセト様に愛されたいです……」
「…ふふ。恋する女の顔ね。」
そう言って頭を撫でられたネフェルタリ様。
昔から変わらぬ撫で方。
落ち込んだときはいつだってこうやって慰めていただいた。
「…ありがとうございます。姫様…」
「私とお前の仲じゃないの。遠慮せずともよい。ただし、ラムセス様の前ではやめておきなさいね?多分バレていることと思うけど。口煩いったらありゃしないわ。」
「姫様!お慎みくださいませ!誰かに聞かれでもしたら…!」
「構わないわよ。ラムセス様はお許しくださるわ。私だってそうだもの。」
「……………」
「それよりムトナ。シンアブビルハの件は早目に処理しておきなさい。あなたの心は固まっているのでしょう?長引けば長引くだけ、シンアブビルハは引き摺ってしまうわよ。」
「どのように申し上げれば良いのでしょうか?」
「きっぱり断れば?」
「……撃沈しました。」
「嫌いと言えば?」
「嘘はつけませぬ。」
「カエムワセト本人を連れていけば?」
「絶対に嫌です!!出来ませぬ!」
結局なんの答えも出せず、おじさんへの贈り物とお見舞いを頼まれて街へ向かった。
「やぁ。」
「……う!!」
「はっはっはっ!!面白い反応する!」
皇太子殿と後宮のちょうど真ん中辺り。
壁に凭れたシン様がいらっしゃった。
「会いに行くと言っただろう?」
「ここに来られては困ります!こちらへ!」
「どこに行くのだ?」
「この前と同じ場所へ!人目につきませぬ!」
「…私はここに軍議で呼ばれたのだ。いても可笑しくはない」
「こちらへ行きましょう!!」
こんなところ、ラムセス様にもネフェルタリ様にもカエムワセト様にも見られたくない。
からかわれるか、拗れるかのどちらかだ。
自分が問題の切っ掛けになってはいけない。
先を歩き、後ろから聞こえるクスクス笑いにムッとしながら、ナイルの畔に到着した。
「シン様。わたくしには夫があると申したはずです!」
「だから、貰い受けるんだ。」
「わたくしに執着するのはおやめくださいませ!シン様にお仕えできませぬ!」
「それだけお前を愛しているということだろう?しかも、お前は野心がある者ならどんなことがあっても手に入れるべき女だ。」
「……はい!?意味が分かりませぬ!」
「ハハッ!…お前の美徳は、己の美しさが分からぬことだな。良いかムトナ。男は常に上に立ちたいという野心が誰でもあるものだ。王家の者なら王に、軍の者なら長に、部族の者なら族長になりたいと願う。ただし、自分をサポートする器のない者が妻になれば、いずれ崩壊する。」
「……はぁ……」
「私が愛した女は、まさにその器を持っている女だった。忠義心や忠誠心を持ち、忠実であり信頼できる。この世の流れを敏感に察知し、先見の目を持ち、状況判断が早く的確である。人への気遣いも忘れず、親切で器量がよい。」
「……はぁ……」
「おまけに美人で男の目を惹く。それがお前だムトナ。」
「……あまりにも誉めすぎです。」
自分がそこまでだとは思っていないが、やはり人から誉められると嬉しいものだ。
シン様はいつだって私の欲しい言葉をくださる。
……でも。
「ありがとうございます。しかしわたくしは、シン様以上に大事なお方が」
「忘れたのか?お前を少女から女にしたのは誰だったのか。」
「……!!」
「申してみよ。」
「……ご勘弁を。」
シン様の問いに答えることができずに顔を背けるも、私の顎を捉え、強制的にシン様へ向かされた。
妖艶な笑みを浮かべ、顔が近付いてくる。
その目を離すことさえ許されない。
「その様子では、私以外の男と触れあったことはないだろう?…さぁ、申せ。誰だ?」
「シン様!わたくしの話を」
「そこまでだ。」
「「!!」」




