11-1
再会から4日。
いまだに会うことも出来ないまま時間だけが過ぎていったある日、街の酒場で奇妙な噂を耳にした。
「おい、聞いたか?ヒッタイトの…」
「ああ、聞いた。ガッシュルウィアの死後、皇后になった奴は追放されたって?タヌヘパとか言ったか。」
「バビロニアの皇太后も追放したんだろ?容赦ないな…」
「おじさん!それ、本当?」
「わっ!ビックリした!…嬢ちゃん、そういうことに詳しいのかい?」
「ちょっとだけ。」
「ヒッタイトはどうなってるんだろうね?」
史実は物語る。
ヒッタイト帝国の皇帝、ムルシリ二世は、正室にガッシュルウィアという娘を置いた。
しかし、僅か数年で死去。
その嫌疑を掛けられたのが亡き父、シュッピルリウマ一世の正室だった。
毒殺が濃厚だという判断により、ムルシリは皇太后をヒッタイトから追放した。
その後、ムルシリはタヌヘパという娘を正妃として迎えるが、その正妃も追放したという。
「どこからの情報なの?」
「シリアの商人が言ってたんだよ。」
「いつの話?」
「昨日だよ。」
「そっか。ありがとう。」
酒場はやはり、街の状況や他の情報が手にはいる格好の場所だ。
そこを出ると、考えながらフラフラとナイルの畔に向かって歩く。
考え事をしたりするのもストレス発散するのも、ここだとなぜか落ち着く。
そこに座り、ナイルの流れを見ながら考える。
ここ2,3日、ラムセス様とカエムワセト様が部屋に籠りきりで話し合っているのはこの事だろうか?
ヒッタイトとの戦いはいまだに一進一退の状態。
勝ったり敗けたりを繰り返し、結局領土拡大も属国獲得も出来ずにいる。
こういう情報が入ると、ヒッタイトの隙が分かってくる。
つまり、王室がバラバラの状態。
エジプトは、皇太子殿下即位に国が沸いている。
安定した王室は民の安定にも繋がるが、逆もあり得る。
ラムセス様はその隙を突こうと企てているのだろうか。
(戦争を仕掛けるつもりかも)
戦略を実行するためには、こういう隙を大事にするべきだ。
しかし、ムルシリやムワタリも警戒はしていることだろう。
ラムセス様はタイミングを図っているというところか。
「…ムトナ?」
「え?」
足をナイルに浸し、パシャパシャやりながら考えていると、後ろから声が聞こえた。
振り向けば、正規軍の服。
「…シン様…!」
「ここで何をしている。」
「あ…いえ…考え事を…」
「フッ…相変わらずだな。」
こんな偶然、二度もあっていいのだろうか?
皇太子殿の近くに捜しに来ると思っていたが、こんな場所で会えるなんて。
足をナイルから抜き、直ぐに足許へ平伏した。
「面を上げよ。そこまで畏まるな。」
「はっ。」
「隣に座っても良いか?」
「…どうぞ。」
隣に座ると、シン様は私を抱き締められた。
まったくの予想外の行動に驚き固まる。
「…私が言った通りであっただろう?…もう一度会えると。」
「…し…シン様!お離しくださいませ!」
「……断る。」
「話したいとおっしゃっておられたではありませぬか!わたくしもそのように思っておりました!」
「本当か?」
「はい!…ですからお離し……ン!!」
少しの油断。
さらに力を込められたシン様が私の唇を奪った。
慌てて両手で抵抗するも、その力に負けてしまい動けず。
「…あれから…忘れられなくて…苦しかった。」
「…シ…ン様ッ!やめ……!」
「毎晩お前が夢に出てくるのだ。…諦めたはずなのに…諦められぬ。」
「お待ちください!!」
あの日別れた後のシン様の感情が、唇を通して流れてくる。
だけど私はシン様の気持ちに応えられない。
理性が利かぬか。
本能に従って、再度口付けしようとされたシン様を止める言葉を連ねた。
「シン様!わたくしはもう娼館の娘ではございませぬ!ご容赦くださいませ!」
ピタリと止まったシン様は、一瞬悲しそうなお顔をされた。
ズキッと胸が痛んだが、表情には出さないように顔に力を込めた。
「…娼館の娘だからこうしているのではないことは、お前が一番存じておるだろう?」
「…存じております。ですが…」
「…まぁよい。その事は後から話そう。」
「……………」
「…ネフェルタリ様の許に戻れたのだな。」
「…はい。お陰さまで側近として再度お仕えさせて頂くことになりました。」
「そうか。…どうやらお前の策は成功したようだな。辺境の様子を確認しに回ったぞ。」
「…確認…ですか?」
「お前だろう?夫婦に扮した旅商人は。ラムセス様の皇太子就任を影で支えたのはお前だ。それを知るものは少ないだろうが。」
「まさか。皇太子殿下の実力にございます。」
「…は。こういうところがお前だな。斥候になる話もあったがどうしてた?」
「……………」
「…やはり斥候として働きかけたのだな?…しかし、無事で良かった。」
普通の会話からも感じ取れるシン様の愛。
本当に心配していたことは、言葉だけでなく表情からも伺える。
確かにシン様はとてもいい人だ。
軍人としての誇りを持っていて勘も優れている。
状況判断が的確で民に寄り添う心もある。
男性としては女性に紳士的。
女を卑下するどころか守ろうとし、一心に愛を示してくださる。
「ムトナ。」
「はい。」
「殿下も妃殿下もお前を許してくださったのだろう?」
「はい。」
「ならば、お前自身の幸せを考えてもいいんじゃないのか?」
「わたくしの幸せはネフェルタリ様にございます。シン様もご存知でしょう?」
「知っておる。そのネフェルタリ様はお前の幸せも望んでいるのでは?」
「…そんな…」
「それが絆で結ばれた主従というものだ。お前を見ていたら、ネフェルタリ様の人柄も見えてくる。」
「……………」
「私と幸せになる気はないか?」
そして繰り返される求婚の言葉。
何度聞いてもドキドキする。
カエムワセト様はこんな言葉を言ってくれたことはない。
ましてや、求婚なんてされなかった。
ただ決められた通り、そして、何が最善かを見極めて結婚しただけ。
「…申し訳ございませぬ。」
「…お前を幸せにするくらいの度量はあるつもりだぞ?」
「存じております。…シン様と結婚したら…きっと愛ある幸せな人生を送れると思います。」
「…私が嫌いか?男として見れないのか?」
「いいえ!そんなことはございませぬ。シン様ほどの男性は、そこらの男には敵いますまい。」
「ならばなぜだ?ネフェルタリ様とてお前を大事に思えばこそ許してくれると思うが。」
私をご自分の胸に引き寄せられると、再度力強く抱き締められた。
こういう体現もされたことがない。
されたことがあるのは、義務感で満たされた愛のない抱擁のみ。
それほど私とカエムワセト様の間は距離があり、心も離れているのが現実。
だけど…夫婦なのだ。
深呼吸して心を整え、シン様の胸を押して距離を開けた。
「…シン様…わたくしはシン様の愛をとても嬉しく思っております。しかし、それを受けることは出来ませぬ。」
「……………」
「今のわたくしは夫があります。」
「ーーーーッッ!!」
驚きの表情。そして、悲しい表情。
一瞬で悟れるほど、シン様は傷付かれた。
それが見ていられず、目を伏せひれ伏す。
謝罪の言葉を何度も頭の中で繰り返し、頭を下げ続けることで謝意を示した。
その状態がしばらく続いたあと、言葉が落とされる。
「…おかしいと思った…」
「……………」
「好きな男がいるのかと問うたとき、お前は違うと否定した。私はそのときのお前の表情が、見たこともないほど冷たいことに気付いていた。よっぽど辛い恋をしてきたか。もしくは秘めた恋をしてきたか。どちらにせよ、恋に臆病になっている女だと思っていた。」
その考えは、どちらも正解だろう。
自分の恋などあまりにも哀れでみすぼらしい。
身分が違いすぎて、言えなくて。でも忘れられずに胸の奥に閉まった。
「……しかし、まだ私にもチャンスがある。」
「!?」
思いもよらない言葉に驚き、シン様を見上げた。
シン様は笑みを浮かべて私を見ていた。
「お前を手に入れるチャンスだ。」
「……え?…ですから…わたくしは夫が……」
「私が揺れるとでも思ったか?」
「……え?」
「ムトナ。お前はお前を愛してくれぬ男と共になって幸せではあるまい。」
「………!!」
「どうだ?私の見解は当たっているだろう?」
……絶句した。
この人は…なぜ見抜いてしまったんだろう?
私の言葉や行動にミスがあったか?
…いや、ここまで気を張って注意していたんだ。ミスなどないはず。
…ならばなぜ?
「驚くな。少し考えれば分かることだ。」
「え?…どういうことです?」
「お前、その傷がありながら皇太子殿に戻ることができ、さらにはネフェルタリ様のお側にいるという。貴族ではないものの中流家庭の身分。しかし奴隷以下まで下げられた。その女が皇太子殿?明らかなる政略婚だろう。」
「政略婚!?そんなことはございませぬ!!」
「そう。お前はそういうことはしない女だ。ならばどうやって?と考えると、自ずと答えは見えてこよう。ラムセス様、もしくはネフェルタリ様に命令されて結婚した。貴族の身分ある者、そして、ラムセス様とネフェルタリ様双方の信頼を持っている奴だ。」
「……………」
「重臣、家臣、側近、お二方の弟。お前の夫はそんなところだろう。それでお前は晴れて貴族の身分。その傷があろうがネフェルタリ様の側で仕える権利を得た。」
「……………」
「しかし、情報網の優れる近衛兵の私が耳にしていないことが一つある。貴族の結婚式はなかったという事実だ。
…お前が結婚して身分を上げたとはいえ、式のない貴族の結婚…そんな前例はないが、考えての答えは、お前が側室か妾で迎えられたであろうことだ。」
「……ッッ!!」
「…私も貴族の身分。正室ならともかく、側室か妾ならば譲り受けることだって可能だ。」
この時代、一夫多妻が普通であり、正室と側室を多く持つ者ほど身分が高く、権力があると言われていた。
多くの妻たちは一人の夫に仕え、切磋琢磨する者もいれば争う女もいた。
その女たちは、夫の言うことには逆らえない。
逆らえばその場で斬り殺される。
夫が妻を追い出したり、他の男に譲るという取り引きは珍しくなかったのだ。
「どうだ?ムトナ。」
「シン様!わたくしは夫があります!」
「して、その夫とは誰だ?」
「……!!」
「私はお前を愛している。そんな男よりお前を幸せにしてやれる。私がその男と交渉しよう。お前の夫は誰だ?」
鋭い眼力。
他者を寄せ付けぬ叡知。
ラムセス様やカエムワセト様と似たそれは、私のすべてを見透かしているよう。
ドキドキする胸が収まらず、立ち上がってシン様の馬に跨がって走った。
「ムトナ!!私は諦めぬぞ!必ず会いに行く!」
背後からシン様の声が聞こえた。
後宮に到着すると、直ぐにネフェルタリ様の部屋に走った。
もう、どうすればいいか分からない。
カエムワセト様は夫。私が愛する方。
だけどその愛は届かない。
カエムワセト様だって愛してくれない。
好きなのに自分を抑制し辛い結婚生活。
シン様は本当に愛してくれている。
言葉も、行動も、瞳も感情も思いも、その存在すべてで私を愛してくれている。
ここまで愛されると悪い気はしない自分がいた。
愛を欲している女の自分がいるのだ。
頭の中はグチャグチャ。
自分の感情が、本当はどこにあるのか分からなくなっていた。




