10-1
「行ってらっしゃいませ。」
「…ああ。」
貴族としては異例。
普通なら、多くの賓客に見守れながら行われる。
しかし、ラムセスとネフェルタリだけに見守られ、ひっそりと行われたカエムワセトとムトナの夫婦の誓い。
『カエムワセト様。…わたくしを側室としてお迎えくださいませ。正室として立つことは、あまりにも傲慢。将来、あなた様のお目に掛かるお方のためにその座は開けておき、わたくしは末席にてあなた様をお支え致します。』
初夜、カエムワセトの前でひれ伏し、どこか死んだような目でそのように告げたムトナ。
あれから一月。
ムトナは献身的にカエムワセトに仕えていた。
食事は出来るだけ自分で作り、身の回りの世話や仕事の手助けまでこなしながら、毎日後宮に通いネフェルタリの世話までしていた。
「………ワセト。」
「はっ。」
「何だお前は!やるべきことは山ほどあるのだぞ!分かっているのか!」
「はっ。」
仕事が身に入らぬほど、ムトナが気になって仕方がなかった。
「いい兆候ではないか。この調子でムトナを見ていけばよい。」
「ら…ラムセス様!からかうのはおやめくださいませ!」
「何を言うか。ムトナが気にかかり、仕事も手につかぬお前が口答えするな!」
「……う……」
「あれと毎日接する度にどういう女がいい女と言うのか思い知らされるであろうが。女として、人として。外見も内面も美しい女はムトナのような女だ。お前が惹かれないわけないだろうが。」
「……………」
「既にネフェルタリなど頭から離れているだろ?お前もムトナに応えてやれ。」
「…しかし…」
「…何だ。」
「ムトナの心が見えませぬ。」
「…………は!?」
「ムトナはもう、私など眼中にないのかもしれませぬ。」
「…プッ!…ワハハハハ!!!」
「殿下!なぜ笑うのですか!!」
「攻略皆無と吟われたカエムワセトが、女一人の前でこのザマか!笑わずにはいられぬわ!」
「……う……」
「ワセト、思いは言葉で伝えよ。そして態度で伝えるのだ。お前たちは夫婦ではないか。遠慮することもあるまい。」
だがムトナは、自分で決意したことは貫き通す女だ。
愛など必要ないと断言したムトナ。
今さら自分の心が向いていると告げ、態度に表したところで喜んで受け入れるなど到底考えられない。
そして、改めて思う。
(…なんて…恋愛が下手なんだ…)
こういうものが難題になると思わなかった。
すべての書を読み、すべての法に精通し、歴史に深く興味を持ち、気付けば解けない謎などなくなった。
その自分が解けないムトナの感情。
「カエムワセト様。…何をしておいでです?」
「…え?……ああ、ムトナ。戻ったか。」
声を掛けられ振り向けば、妻の姿。
その距離は、夫婦とは言いがたいほど位置も心も離れていた。
「ネフェルタリ様のご命令により、街の様子を見て参ります。カエムワセト様、何かご入り用のものはございますか。」
「いや。…一人で行くのか?」
「…?…いつも一人でしょう?…では、行って参ります。」
不思議な顔をしたムトナの背中を見送る。
「…今のは、一緒に行こうと言ってデートするチャンスだ。うつけ者めが。」
「……う……」
そして主人のからかいが始まる。
そんなカエムワセトの悩みも知らず、街に出たムトナ。
「あ、おじさーーん!これ、お土産。」
「ムトナ!…これは…薬草じゃないか。こんなにたくさん、どこから持ってきたんだい?」
「私の女神におじさんのことを話したの。そしたら持っていけってくれたのよ。これを煎じて飲んで、早くよくなってね。」
「なんと…ありがとう…」
「そう伝えておくわ。…さ、ちょっとお掃除して、ご飯も作ってあげるから、ゆっくり休んでて。」
結婚してから、自分で食事を作るようになった。
ラムセス様付きのカエムワセト様。
その名は広く民に知られ、私は今まで以上の注意を払っていた。
ラムセス様を崩すために、必ずカエムワセト様の攻略を企てる輩が出てくるはずだ。
一番は暗殺。次に毒殺。
エジプトだとしても気を抜くな、自分以外は敵だと思えと、口うるさく繰り返されたラムセス様。
だからこそ、口にするものは自分で作って差し上げることで注意を払っていたのだ。
そのお陰で街の市場へ向かうことが多くなった。
そこで知り合った人たちと仲良くなり、その様子をネフェルタリ様にお伝えしていた。
後宮から出ることは数々の手続きが必要のため、ネフェルタリ様は気を使って外へ出ようとされないからだ。
ラムセス様が皇太子殿下になり、この一月半はとても平和だった。
後宮や皇太子殿に仕える侍女や兵なども決まり、やっと落ち着きを取り戻した。
私もカエムワセト様との生活も慣れ、毎日ネフェルタリ様ともお会いできる安心感もあり、カエムワセト様のことで心が痛むことはなくなった。
『お前は思っていればいいのよ。人を愛することは罪じゃないわ。カエムワセトの気持ちを考えると辛くなるから、考えないようにすればいい。好きだって気持ちに胸を張るだけ。』
なんか、この言葉で吹っ切れた。
カエムワセト様本人に言った通り、愛など必要ない。求めたりしない。
ただの同僚であり同居人。
そう考えたら楽になった。
「じゃ、おじさん。そろそろ帰るね!」
「ああ。ありがとう。これをお前のご主人様に礼として差し上げておくれ。」
「凄い!いっぱいのナツメ!いいんですか?」
「ああ。持ってお行き。」
こうして街の人たちに接することも、自分のストレス解消になっていた。
それから少しだけナイルの畔で心を癒し、皇太子殿へ戻る。
(そういえば、ラムセス様は忙しそうだな…)
戦争が終わり一月半。
打撃を受けたヒッタイトは、一度首都ハットゥシャに戻り、態勢を立て直すだろう。
それを迎え撃つ準備を始めていると思う。
同じ手を食らうムルシリではない。
策を上回る策、それが次の勝利を生む。
今は頭脳の戦い。
「…開戦前は雰囲気で分かるし…今はまだ大丈夫かな。…よし、帰ろう。」
帰ったらカエムワセト様がお待ちだ。
目の前では表情を崩さず、再度胸の奥に閉まった感情を出さないように接する。
(よし!)
気合いをいれて頬を数回叩いた。
おじさんからいただいたナツメを持つと、皇太子殿へ向かって歩き始めた。
帰り道で食材を買い、大きな袋をぶら下げてやっと見えてきた門。
皇太子殿は大きいから近くに思うが、実際は結構な距離があり、歩けど近付かないと思うほど帰りは辛い登り坂。
売りに来る商人から買えばよいのだが、私の場合はリフレッシュも兼ねているから、街に行くのは楽しく思う。
「…イタッ!……って、何してるのかな…私…」
もうすぐ到着というところで大胆に転けてしまった。
買ったものが袋から出て、そこらにばらまいてしまった。
溜め息を吐きながら拾い集めていると、向こうから蹄の音が聞こえてきた。
どうやらラムセス様への伝令が来た様子。
拾うのをやめて、その場で平伏した。
すると、近付いた蹄が私の前で止まった。
「…そなた、大丈夫か。豪快に躓いていたが。」
クスクス笑いながら落とされた声。
恥ずかしい場面を見られたと思いながらも、なぜか懐かしい声に聞こえ、ゆっくりと頭を上げた。
一瞬、息を飲んだ。
動揺して、尻餅をついた。
それを見た馬上の男性が馬を降りた。
「…怪しいなお前。何者だ。皇太子殿下に何の用があって宮に向かっておる。」
組み敷かれながらそう言った。
そして、顔を隠した布が強引に外された。
その方は、目を見開いた。
「そなた……ムトナ…!!」
「…シン様…お久しゅうございます…」
突然の、思いもよらぬ再会に、シン様は目を見開いて固まっていた。
何か話したそうで、だけど言葉が出てこないと言う感じで。
シン様はこんな私に思いを寄せてくださった相手だ。言いたいことは大体分かる。
(ごめんなさい…シン様…)
だから敢えてそれを言わせぬように、言葉を繋いだ。
「シン様。ラムセス様へのご伝言があるのでは?ここで道草などくっていてはいかがかと。」
「…そうだ、お伝えせねばならぬことがあったのだ。…ムトナ、用が終わったら再会を祝おうじゃないか。ここで待っていてくれぬか。」
「申し訳ございませぬ。わたくしも遣いの帰りなのです。果たせばならぬことがございますゆえ、辞退させていただきます。また次の機会がございましたら、共にお祝いしましょう。…失礼致します。」
何とも気まずい。
とにかくこの場から逃げたかった。
シン様が馬に跨がったのを見て、馬のお尻を思いっきり叩いた。
「…うわっ!何をするんだムトナ!」
「優先順位を間違えぬように行動してくださいませ。」
ピシャリと正論をぶつけ、用事から済ませるようにと促した。
部屋に戻り、力が抜けたように床にペタンと座り込む。
すっかり忘れていた。
ここは首都テーベ。
王宮もあれば近衛兵も多くいる。
皇太子殿下になられたラムセス様は、今まで以上に近衛兵と密接に関わってくる。
(…ビックリした…)
鼓動を落ち着かせるように深呼吸を数回。
私の初めてを任せた人。
とても優しく、紳士だった。
そして、外見にとらわれず愛してくれた。
自分の心を許し、すべての事情を打ち明けた。
そして、助けて頂いた。
私にとってシン様の存在は大きく、忘れられないものなのだ。
…だけど、今や自分は人妻だ。
シン様を傷付けて求愛を断っておきながら…
合わせる顔などない。
「……ムトナ。」
「わぁあああ!!」
「…………おい。なぜ叫ぶ。」
「か!カエムワセト様!申し訳ございませぬ。考え事しておりましたゆえ驚きの余り…」
「考え事?何かあったか。」
「…いえ。何もございませぬ。」
「申してみよ、ムトナ。」
(…あれ?)
私に近付いたカエムワセト様は、床に座り込む私の目の前に腰を落とされて座った。
その雰囲気は、今までに感じたことはない。
いつだってラムセス様の隣にて警戒を怠らず、神経を張らせているカエムワセト様。
しかし今は安らいでいる…というか、私に対して接し方が変わってる。
「…カエムワセト様こそ何かございましたか?」
「特に何もないが?」
「では、何の心境の変化です?」
「……は?」
は?と言いたいのはこっちの方だ。
カエムワセト様が目の前にいて、私と同じ目線で話そうとしているのが分かった。
努力された見せかけの愛など、私は望んでない。
そういうことで、カエムワセト様を煩わせてはならない。
結婚して感情を必死に抑えてきてやっと慣れてきたのに、こういうことはしないで欲しい。
ラムセス様だけを見ていればいい。
ネフェルタリ様だけを愛していればいい。
それがカエムワセト様だ。
このお方はそのお二人と共に国を背負っていくお方だ。私は支えればいいだけ。
「…カエムワセト様。わたくしのことはお気にせず、ご自分の責任をお果たしくださいませ。」
「……………」
「わたくしもそのように致しますゆえ、気遣いは無用にございます。」
「…意見を申せば、お前は私の妻ではないか。責任と言うのなら、お前に対しての責任もある。」
「少しの煩いは誤断を招き国を左右致します。わたくしは、カエムワセト様の煩いになってはなりませぬ。愛情など要らぬと申しましたでしょう?わたくしは大丈夫ですから。」
クスクス笑いながら立ち上がった。
これで少しでもカエムワセト様が気にせず仕事ができるようにと願って。
…しかし、急に手首を掴まれ驚き見る。
「私はお前を煩わしいと思ったことなど一度もない。お前を妻として迎え、後悔した日もない。お前も自分の言葉を実行するのならば、私も自分の言葉を実行する。」
「…え?」
「愛など要らぬと突っぱねるお前に、私なりの愛し方を示す努力をしよう。」
そう言って笑顔で頭を撫でられた。




