9-5
「そこに座れ。」
別の部屋に連れてこられた私は、促された場所に大人しく座った。
どうやら、カエムワセト様のお部屋らしい。
「…ムトナ。悪かったな。今まで気付かずに。」
「………いえ。」
…悪かったな?
どういう意味だろう。
…ああ、そうか。
私の気持ちには答えられぬと、そう言っておいでなんだ。
さっきからズキンズキンと胸が痛む。
「お前は私との結婚が嫌か?」
「……………」
「私のことは気にせずともよい。私が思いを寄せてはいけない相手ではないか。」
「愛しているお方がおられるのに、なんとも思っていない女と結婚するのですか。」
「見ず知らずの女よりマシだろう?」
マシ…か。
そうかもしれないな。
見ず知らずの男と結婚するより、自分を愛さない好きな人と一緒になるのがマシだ。
「それに、この結婚は誰もが幸せになる。ラムセス様は安心して公務ができ、ネフェルタリ様はお喜びになる。私は嫁をとれと言われる必要も縁談話もなくなるし、お前は貴族の身分になってネフェルタリ様のお側にいれるではないか。」
「カエムワセト様のお心はどこに行ったんです?」
「私のことは気にせずともよいと言ったであろう。」
…でも、考えれば私やカエムワセト様のような側近は、主人のことをを第一に考えるのが普通だ。
結婚したって変わらないだろう。
カエムワセト様とて、そのようにお考えだろう。
「…分かりました。結婚します。」
「分かってくれるか?」
「はい。」
「そうか。…私もお前を愛するように努力を」
「構いませぬ。その努力は必要ございませぬ。」
「……え?」
「わたくしは、ネフェルタリ様以上にはなれぬと思っております。カエムワセト様のお心も、変える必要など微塵もございませぬ。幸せな夫婦を演じて見せますゆえ、ご心配には及びませぬ。」
「……どういう意味だ?」
「わたくしは、愛など求めませぬ。カエムワセト様のご負担になることは、これ以上出来ません。ネフェルタリ様へのお世話を生涯の生き甲斐とします。あなた様だってラムセス様のお世話を生き甲斐としておいででしょう?」
「……………」
「ただ一言だけ言わせてください。
…幼き頃よりお慕いしております。…いえ、お慕いしておりました。身分違いゆえ、胸の奥にずっと秘めおき、打ち明けることはないと思っておりました。
…これから末長くよろしくお願いします。」
深々と礼をすると、無言でその場を去った。
胸が引き裂かれた思いってこういうことなんだ。
初めて知った。これが恋心。
ラムセス様を思い、切なく溜め息を吐いていたネフェルタリ様の気持ちが、今になって理解できた。
「ムトナ!待つんだ!!」
「申し訳ございませぬ!明日には笑ってお側に控えますゆえ、今日はご勘弁を!」
「私は覚悟してこの結婚を受ける!お前という家族を守る決意をしている!」
「もうおやめくださいませ!
マシですって?覚悟ですって?…これ以上わたくしを壊さないでくださいませ!」
追ってきたカエムワセト様。
振り切ろうと走るも、あのときの鞭で足が遅くなった私は、カエムワセト様に簡単に捕まった。
その騒ぎを聞き、ラムセス様とネフェルタリ様が出てこられた。
直ぐに二人同時にひれ伏した。
「…ムトナ?どうしたの?」
「何でもありません。…この結婚をお受け致しますと、カエムワセト様にお伝えした次第です。」
「…ワセト、本当か?」
「…………はっ。」
「そうか!めでたいではないか。じゃあ、明日にでも段取りを」
「…ラムセス様。少々お待ちくださいませ。」
「なんだ?」
「嫁入り前の儀式は私にお任せくださいませ。本日は夜通しムトナと一緒にいても?」
渋々了承したラムセス様。
私はネフェルタリ様に手を引かれて部屋へ連れ戻された。
落ち着くように背中を撫でながら、優しい声でこう言った。
「ムトナ…そなた、カエムワセトが好きだったのね…」
「……………」
「ここには私しかおらぬ。吐き出せば楽になるわ。言ってごらんなさい。」
「………はい!……はい!!」
「…そっか。カエムワセトに何か言われたの?」
「…いいえ。ただ、カエムワセト様のお心にはわたくしなどおりませぬ。それが悲しかっただけです。」
「…本当にそれだけ?」
「…はい。」
「覚悟って言われたの?」
「はい。…わたくしを愛するように努力するともおっしゃってくださいました。
…そのような愛など…強制的な愛など…」
「そうよね。男は本当に女心が分かっておらぬ。呆れてしまうわね。」
「ネフェルタリ様…」
「でも、ムトナを本当に心から愛してくれるかもしれないわ。僅かな希望まで捨ててはダメよ。」
「……はい。」
なぜかすごく落ち着けた。
ネフェルタリ様だからだろうか。
同じ女としての言葉だったからだろうか。
その理由は分からないけど…落ち着けたのだ。
「姫様…わたくしはどうなるのですか?」
「そうね…私は明日後宮に移動になるけど、お前はカエムワセトと一緒の部屋をこの宮から与えられるでしょうね。」
「…そうですか。」
「昼間は後宮にて私の側にいて、夜はここに戻る。…それで構わぬ。今はそなたが私の近くにいるのだ。以前のように私を助けて欲しいわ。そなたが助けを必要としているときは、私が助けになるから。…ね?」
「はい。」
「考えを変えましょう。ムトナ。そなたは好きな相手と夫婦になれるのですよ。これ以上素敵なことはないわ。だから、カエムワセトにも礼を尽くし旦那様として立てていきなさい。」
「はい。」
「良き返事だわ。大好きよムトナ。私がいるわ。何も心配しないで。」
その夜、幼き日の思い出を語り明かし、再会の喜びと心の平安を身に染み渡らせた。
ベッドの中で共に手を繋ぎ、その温もりがまた私を落ち着かせていく。
翌日、目が覚めたのと同時に、ネフェルタリ様が忙しく私の身支度を始められた。
「…姫様!お待ちくださいませ!わたくしにはこんな服は似合いませぬ!」
「似合っているわよ。アクセサリーは…これがいいわ。あ、お化粧もしていきましょうね。」
「化粧!?必要ありませぬ!顔は隠しますゆえ、化粧せずともよいではございませぬか!」
「何言ってるの!化粧で傷を隠すのよ。お顔は出しなさい!…せっかくの美貌が勿体ないわ。」
結婚が決まった際、家を出る花嫁は華やかに着飾り、夫の迎えを待つ。
ネフェルタリ様はその慣例通り、私を着飾っていた。
一方、カエムワセトはラムセスに呼び出され、沈黙に包まれた部屋でワインを酌み交わしていた。
カエムワセトの頭の中は、今のラムセスの頭を読むことでいっぱいだった。
嬉しそうでもあり、悲しそうでもある表情で月を眺めていたからだ。
暗くなって、恐らく夜半を過ぎる頃まで。
長い沈黙を破ったラムセスに驚愕した。
「…ワセト、すまぬ。」
「…突然何をおっしゃいます。」
「俺は知っていたぞ。隠さずともよい。」
「何のことでしょう?」
「…お前がネフェルタリを愛していることだ。」
「!!」
殊の外動揺したカエムワセトを見て、フッと笑みを溢したラムセス。
カエムワセトは息を飲み、ひれ伏した。
「…お斬りください。ラムセス様。」
「……………」
主人であるラムセスの第一正妃。
側室ならともかく、正室に心を寄せるなど許されない。
発覚した場合、主人に斬り殺されることは普通にあったのだ。
「…斬ろうと思えばいつでも斬れるわ。今までだってそうであった。お前だって俺を殺し、ネフェルタリを我が物にすることくらい、いつでも出来たであろう。」
「ラムセス様を斬るなど!考えたこともございませぬ!」
「それだ。ムトナの忠義心は見上げたものだが、お前の忠義心も高く評価しておる。」
「……え?」
「愛する女がありながら、態度にも言葉にも出さずにひた隠し、悟られないように秘める。俺とネフェルタリへの忠義は本物だ。何よりも俺のことを優先して考えるお前が分かっていながら斬れようか?」
「……………」
「…だが、俺もあいつを溺愛しておる。狂いそうなほど、ネフェルタリしか見えぬのだ。…お前に渡すことは出来ぬ。…すまない。」
「おやめください!分かっております!」
「…ネフェルタリは気付いておらぬ。今まで通りに接することが出来るか?もし、苦しいならば辞退せよ。」
「バカなことをおっしゃいますな。私はあなたの剣、あなたの盾にございます。私の心情などお考えくださいますな。エジプトと妃殿下のことだけをお考えください。」
「…ああ。ワセト、こちらへ。」
ラムセスは、自分と同じ椅子にカエムワセトを座らせ、ワインを注いだカップを差し出した。
「…ムトナを愛せとは言わない。だが、最低限の礼は尽くしてやれ。…あれは昔からお前に惚れていた。」
「……はい。」
「何だ?その反応は。お前ほどのものがムトナの思いに気付いてなかったか?」
「……先ほど気付き…泣かせてしまいました。」
「とんだ鈍感男だな。」
「まったくです…」
この結婚は、恐らくネフェルタリ様のための結婚だったんだろう。
ムトナと結婚すれば、すべてが丸く収まる。
ネフェルタリに自分の思いが気付かれることもなければ、ネフェルタリの許にムトナがいることでネフェルタリの心が安らぐこととなる。
そして、自分への配慮だということも分かる。
手に入れられないものを思うより、手に入れた女で子孫を残せと。
カエムワセトにとっては、喜ばしくも苦しい事実であった。
「まぁ…案ずるな。お前とムトナは相性がよい。だから俺は、お前にムトナを当てがったんだ。」
「…はぁ…」
確かにラムセスの言う通り、ムトナが嫌いというわけではない。
自分と同じ考えを持ち、行動出来る。
恐らくエジプトでもそうそう見つからないほど頭の切れる女だ。
共にいて苦労せず生活できるだろう。
「それに、お前がムトナに惹かれていくのも時間の問題だ。」
「……………は!?」
「…お前、本当にネフェルタリ以外の女を女とも思っておらぬのだな…」
「え。…申し訳ございませぬ…」
「謝るな。それだけ一途だとも取れるであろうが。…なんかイラつくが。」
「…ッ!申し訳ございませぬ!!」
「だから謝るな!俺が惨めになる!つまりだな!出ていったとき、既に土台は出来ていたってことだ!」
「…はぁ…」
「成長したあいつは、ネフェルタリにひけを取らぬ。負けず劣らずの美貌だろうよ。期待していろ。」
「…はぁ…」
「ネフェルタリのことだ。明日はムトナを苛めぬいてお前の前に差し出すぞ。…こりゃ見物だ。」
翌朝。
一晩、共に過ごしたラムセスの部屋を出ると、身支度を整えて宮の視察に回った。
カエムワセトのいつもの光景。
何もないことを確かめると、厨房の様子を見、ラムセスに朝食の時間を告げる。
「殿下。朝食は半刻後になります。」
「ああ、分かった。…そうだ、今日はお前とムトナも同じ食卓で食事せよ。」
「御意。」
結婚が決まった朝、それぞれの家では、家族が豪華な食事を用意して送り出す慣わし。
自分の場合はラムセスが、ムトナの場合はネフェルタリが代行だと悟った。
…昨日のムトナの叫びが頭から離れず、会ったら詫びの一つでも入れねばと考えていた。
それほど胸を打たれ、苦しくなった叫びだった。
そして、その時間がやって来た。
「ーーーーーッ!!」
「……惚れただろうが?ワセト。」
いつもは厚い布で覆われたムトナの顔。
今日は取り払われ、自分のために美しく着飾った一人の女がそこにあった。




