9-3
初めての知ったラムセス様の思い。
なぜか胸を打たれた。
「後悔だなんて!そのようなことおっしゃらないでくださいませ!わたくしはわたくしの判断で屋敷を出ました。それに関し、殿下が煩うことはありませぬ!」
「…お前はネフェルタリの心の拠り所だった。俺はそれを奪ったのだ。あいつは何も欲しない。地位も名誉も、皇太子妃や皇后という立場も望んではいない。俺には分かる。望んでいるのはお前だ。」
「…お待ちくださいませ…」
「ゆえに、俺はお前をあいつの元へ還す。」
「お待ちくださいませ!そのご命令だけは言ってはなりませぬ!お考えくださいませ!今やラムセス様は皇太子殿下でございます!わたくしは」
「命令だ。ネフェルタリの側に。」
頭を鈍器で殴られた気がした。
もう、戻る気はなかった。
自分がしてきたことは何だったんだろう?
「俺の後宮で、ネフェルタリに仕える侍女として働くのだ。」
「…出来ませぬ…」
「命令だと言ったであろうが。」
「お許しくださいませ…それは出来ませぬ…」
「俺の名がお前によって汚れようとも、俺は実力で汚名を雪ぐ。」
ありがたいお言葉。嬉しくて涙が出てくる。
だけど、ラムセス様が苦しむのなら、ネフェルタリ様も苦しまれてしまう。
そんなことあってはならない。
「…皇太子殿下…お許しくださいませ…」
「……………」
「その命だけはお取り下げくださいませ。」
「…お前な。俺がここまで紳士的に接しているというのにうるさいぞ。」
「…え?」
「素直にはいと言えばいいものを。」
「申せませぬ。それだけは決し…て!?
…何をなさいます!お離しくださいませ!」
「分かった。お前は忠実な奴だ。だが、俺にも反抗するような立場の分からぬ奴は、絶対的権力の前に差し出す。」
肩に担がれて驚き、少々パニックになった。
しかし、言葉の一言一句は聞き逃さない。
絶対的権力の前に差し出す?…まさか!
「ネフェルタリ!部屋におるのか!入るぞ!」
「ラムセス様?おります。どうぞ、お入りになって。」
ドアが開かれた。
そこには我が女神、ネフェルタリ様が。
降ろされた瞬間、声のした方へひれ伏した。
「…ラムセス様?どうされました?この者は?」
「お前への土産だ。」
「土産?…男は必要ありませぬ。なんという土産を送られるのです?」
「…その方。何か申さぬか。」
「………!!」
背中から聞こえるラムセス様の威圧を伴う声に、身体がビクッとなった。
でも、ここで声を出せば私だとバレてしまう。
「…何も申さぬつもりか?」
「……………」
「それならば俺にも考えがある。ネフェルタリ。お前は主である俺に逆らった罪として、この宮を」
「何をおっしゃいますか!!ネフェルタリ様に罪はございませぬ!!」
思わず立ち上がり、ネフェルタリ様の前で両手を広げて塞がった。
ラムセス様は、私が断ったことの罪をネフェルタリ様に被せようとしておいでだ。
そう思ったが、またあの表情。
そして、ラムセス様の肩越しに、笑いを堪えているカエムワセト様のお姿。
(…しまった…!)
反射的な行動を起こしてしまった。
顔を隠した布の奥で、一筋の汗が流れた。
「……その声は……まさか……」
どこか躊躇うように声を発せられた。
「…こちらを向きなさい。」
「……………」
「こちらを向きなさいと言っているの。」
広げた手を降ろし、ゆっくり振り返る。
真っ直ぐ顔を捉えた。
あの日以来だ。
ネフェルタリ様の部屋から追い出されたあの日以来。
こんなに間近でお顔を拝見できたのは。
感動で視界がボヤけてくる。
我が女神、ネフェルタリ様が目の前にいる。
しかし。
パァァーーーン!!
大きく目を開き驚いたかと思えば、左頬に衝撃が走った。
「…なぜわたくしの側から消えたりしたのだ!どうして何も言わずに出ていったりしたのだ!!」
「申し訳ございませぬ!」
「答えよムトナ!!」
「申し訳ございませぬ!!」
「許せぬ…!許せぬ!!」
次の瞬間、ネフェルタリ様は膝から落ち、私を抱き締めた。
「…ネフェルタリ…さ…ま」
「…ッッ…!うわぁああーーー!!ぁあああーーー!!」
そして、大声で泣き始められた。
まるで子供のように感情をぶつけ、ご自分を晒け出して。
「…ネフェルタリ。ここに来て早々疲れているかもしれぬが、少し話してやれ。
…ワセト、行くぞ。」
「はっ。」
ラムセス様のお声が掛かり、お二人が退室されようとした。
ネフェルタリ様は、蚊の鳴くような小さく震えた声で一言こう告げた。
「我が主ラムセス様…ムトナを…捜してくださったのですか…?」
「……無論。お前が求めるものは俺が手に入れよう。時間が掛かりすまなかったな。」
「…ああ…今までで一番嬉しいプレゼントだわ…
ありがとうございます…ありがとうございます…」
出ていかれようとしたラムセス様がもう一度近付いてくる気配。
私の左肩の上から腕が延び、ネフェルタリ様の頬に添えられ涙を拭う。
ネフェルタリ様は、愛しそうな笑顔でラムセス様を見つめ、その手の温もりに酔いしれた。
涙を2,3度拭うと、無言のまま部屋を出ていかれた。
「…ムトナ。」
名前を呼ばれ、即座にひれ伏した。
すると、さっきまで泣いていたネフェルタリ様が今度はクスクス笑う声。
「変わっておらぬな。…私はずっとムトナが死んだと聞かされていたの。でも、信じなかった。あなたが私のために尽くしてくれた日々を思い巡らし、私より先に死ぬはずはないと思ったの。」
「…姫様…」
「やっぱりお前は生きていたわ。面を上げよ。我が親友、我が妹。無事でよかったわ…大好きなムトナ。会いたかったの…ずっと会いたかったの…」
「…ッッ!!」
「お前が私を捨てたと思った日もあったわ。恨んだ日もあった。だけど心が訴えるのよ。ムトナはそんなことしないって。」
「……………」
「会いたくて毎日泣いたわ。…それに謝りたかった。お前が出ていった日、私はとてもあなたを傷付けた。ごめんねムトナ。私を許して…」
「姫様!何をおっしゃいますか!わたくしに許しを請うなどあってはなりませぬ。ネフェルタリ様は何一つ悪いことはないのです。わたくしが悪かったのです。あなた様のお心を砕いてしまった暴言をお許しくださいませ。」
また抱き締めたネフェルタリ様。
今度は私もガッチリとネフェルタリ様を抱き締め、二人で大声を出し泣いた。
屋敷を出てからの地獄のような日々。
ネフェルタリ様のお側を離れる心痛
疼く肉体との戦い
醜い自分を受け入れる辛さ
回復後に訪れた金銭面での苦労
日に食べるものさえない苦しさ
遠い地で苦しむ噂を耳にした時の葛藤
身体を売る辛さ
旅の苦労
危険な状況でも
もうダメかもしれないと思った状況でも
生きている限り精一杯ネフェルタリ様のために突き進もうと決意した遠い昔を繰り返し思い巡らした。
ネフェルタリ様の笑顔を守るために
ネフェルタリ様の憂いをなくすために
ただ一心に思い続けたネフェルタリ様。
すべての辛さや苦しみが、この喜びのためにあったと感じた。
すべての辛さや苦しみが、全部報われた気がした。
「ムトナ。よく顔を見せて?」
「…!」
「…どうしたの?」
「申し訳ございませぬ。そのご命令は…お取り下げくださいませ。」
「…なぜ?」
「……………」
「ムトナ。怖がらなくていいわ。私にも話せないことなの?」
「…そういうことでは」
「じゃあ話して?ね?」
…さすがというべきか。
長い間、ラムセス様とカエムワセト様お二人の側にいるだけあって、私の追い込み方法が三人一緒だ。
「…ネフェルタリ様…わたくしは身体中に奴隷以下の刻印がございます。」
「…鞭で打たれたの!?」
「はい。…それが顔にも残っております。ゆえにお見せ出来ませ…ぬ?…姫様!何をなさいます!」
「見・せ・な・さ・い!」
「ダメです!お離しくださいませ!」
「嫌!!」
顔を隠した布を引っ張るネフェルタリ様。
必死でそれを防ごうと顔を押さえるも、剥ぎ取られてしまい両手で顔を隠した。
優しく背中を撫でられると、手首を掴まれる。
大丈夫だからと言われているようで、私は力を抜いた。
一瞬、表情が歪んだ。
でも、直ぐに笑顔をお見せになった。
「…とても美しく成長していたのねムトナ。」
「…え?」
「こんな美人さん、見たことないわ。そんなお前が私の妹だなんて鼻が高い。」
「…ネフェルタリ様…」
「私だって、みんなから綺麗だって言われるのよ?…ムトナに負けちゃったかしら。」
「…姫様の美貌を越える者はおりませぬ!」
「目の前にいるじゃない。…そうだ。ムトナ、湯あみを手伝ってくれない?」
「え?…あの…」
「さっきここに来たばかりで、侍女さえ決まってないの。後宮にも行ってないし。」
強引に連れていかれた湯殿に行けば、ネフェルタリ様はわざと私に湯をかけ、びしょ濡れになった私を引っ張り落とし、共に風呂に入った。
そこで気付いたネフェルタリ様の思い。
全身にある私の傷を直接見て、それをご自分が受け止めると。
「…ネフェルタリ様…ぅわぁあーー!!」
「ムトナは綺麗よ。とても美人だしスタイルも抜群じゃない!泣かないの!もう…」
無数の鞭打ちで醜い身体を綺麗と繰り返され、ネフェルタリ様の懐の深さを知った。
…そうだ。私はこのお方のこういうところに惚れたんだ。
湯殿から上がり、先ほどの部屋に戻る。
ネフェルタリ様はずっと私の手を離さず、座るときも同じ位置で私と同じ目線になる。
「ムトナ、知ってる?私、あのときの子を産んだのよ。…明日会えると思うけど。」
「おめでとうございます。お二人のお子がおられると聞き及びました。」
「…本当は三人だった。でもね、きっと思いっきり遊んでると思うわ。」
「…はい。」
お子を失われた悲しみは消えぬも、その死を受け入れたと分かる表情。
生きていれば辛さがあるが、乗り越えていく強さも必要だと物語る。
「ムトナはこれからどうするの?…もう、私の側には戻って来れないの?」
「…姫様は既にご存知のはずです。」
「私はもうお前を失いたくないの。私のことは気にせずともよい。」
「ネフェルタリ様。わたくしの心は常に共にあります。毎日会えずともそれでよいではありませぬか。姫様が呼ばれるとき、わたくしは直ぐに会いに行きましょう。しかし、侍女として後宮にお仕えするわけにはいきませぬ。ラムセス様は皇太子殿下、姫様は皇太子妃殿下というお立場です。」
何度も夢に見た。
だけどそれは叶わぬ夢なのだ。




