9-2
もう、涙が止まらなかった。
ネフェルタリ様は、ラムセス様の妻としての責任を自覚しておられる。
皇太子妃として、そして皇后として。
これからご自分の身に降りかかってくる重責を理解しておられる。
ラムセス様の不在時に、国を任せ政務代行するのがネフェルタリ様になるのだ。
その自覚が、ここに足を向かわせた。
だけど私は知っている。
ラムセス様を思い、夜も眠れず食事も喉を通せないほど心配して煩うネフェルタリ様を。
気丈に振る舞っていても、とても弱いお方だということを。
民が去る姿を見て、奥へ控えられたネフェルタリ様。
しばらく時を見て声を上げる。
「アメンモセ様!!アメンモセ様!!」
「…!!……?」
声が届き、私と目が合った。
しかし表情が優れない。
(…そうか!この格好で誰か分からないんだ!)
「ホウジュは元気にしていますか!!」
「…!!その方!そこで待て!!」
(よし!気付いた!)
正体を知らせるように叫ぶと、瞬時に察したアメンモセ様が王宮から出てきた。
門の中へ入って直ぐ、アメンモセ様の足許にひれ伏して、再会と無事を喜ぶ。
「ご無事で何よりです。…ネフェルタリ様、見事な演説でした。ネフェルタリ様はいつから来られてたのですか?」
「いつの間にか来ていて、私も驚いている。私はここの鎮圧に忙しかったからな。それよりムトナ、よく無事でいてくれた。心配していたぞ。」
「王宮内はどのような様子でしょうか?セティ様は動かれていますか?」
「セティ様?…どういう意味だ?」
「アメンモセ様、これは口外せぬようにお願い申し上げます。
…セティ様はラムセス様の皇太子即位の後押しをしておいでです。今回の戦争が終われば、ラムセス様は即位なさいます。」
「ま…真か!!」
「はっ。」
ラムセス様もカエムワセト様も、アメンモセ様に伝えてはいなかったか。
しかし、戦争から戻れば直ぐに即位される。
ここでバラしても問題はないだろう。
しかし、金鉱のことは言わずに確信を持たせる。
「ラムセス様とカエムワセト様が謁見された際、セティ様が王宮の掌握を申し出たそうです。大臣たちもセティ様のご意見に賛同のご様子。恐らく、皇太后様は…」
「…廃位されるか、追放か。」
「憶測に過ぎませぬ。しかし、セティ様の言葉を信頼しても良いでしょう。ラムセス様即位の妨げになるものは排除してくださるという意味かと。」
それからアメンモセ様を真っ直ぐ見上げた。
「アメンモセ様は正規軍の指揮権をどこまで振るって良いお立場でしょうか?」
「…直接的な命は出せぬ。ただ進言は出来る。テーベを守るための意見として聞き入れられるはずだ。何か考えておるのか?」
「無駄な命を落とさぬよう、正規軍を市内の至るところに配置し見廻りを強化させるべきかと。」
「それで何かが変わるのか?」
「少しの威圧と多くの安心が得られます。」
「なるほど…ムトナ、お前は?」
「…わたくしと言えば噂でしょう?」
「ハハッ!戦況の噂に警戒するか!」
「左様にございます。」
「分かった。正規軍のことは任せておけ。ムトナ、民はまだ気が張り詰めている。十分に注意致せ。」
「ありがたきお言葉。…それからネフェルタリ様のことをよろしくお願い申し上げます。」
「任せておけ。大事な我が妹ぞ?」
「フフ。そうでした。」
少しの情報、正規軍配置の意見、女神のフォローをお願いすると、ひとまず宿屋へ向かって休息を取ることにした。
それから二日後、エジプトとヒッタイトが開戦したという情報が入った。
アメンモセ様は、私の意見を聞き入れてくださり兵を配置するように進言してくださった。
そして嬉しい誤算。
度々アメンモセ様の遣いの者が、貴族に入る情報を教えてくれた。
私は酒場に入り浸り、街の様子を伺っていた。
「おい、聞いたか?ヒッタイトは戦車に三人乗っているらしいぞ!」
「三人だって?エジプトは不利じゃないか!」
「ああ、負けそうだよな…」
「…なんだよそれ。聞き捨てならないな。」
「何だ?酔っぱらいか?」
「お前ら知らないのか?ラムセス様がその戦車に対抗する戦略をもって戦っていることを。」
「えっ!?お前、何か知ってるのか!」
「知ってるよ。」
ラムセス様は、戦車隊と弓兵隊をセットで配置された。
機動力のある戦車隊のバックアップなど、ヒッタイトも見たことがないだろう。
弓の腕があるという自信。
強気なラムセス様の心の表れだ。
盾など役に立たないほどの無数の矢雨。
その弓兵隊の活躍は底を知れず、三人乗ったヒッタイト戦車隊を次々と落としていた。
戦場は、乗り手のないヒッタイトの馬が縦横無尽に走り回っていた。
戦争は、軍を纏める総指揮官次第で決まる。
ヒッタイトを纏めるは、皇帝ムルシリ2世。
その父シュッピルリウマ1世の偉大な統治を受け継ぎ、ヒッタイトの黄金時代と言われるほど、国を安定させている賢帝。
側に控えるは、その息子ムワタリ。
父、ムルシリの教えを忠実に受け継ぎ、皇帝教育を受ける皇太子であり、軍筆頭のガル・メシエデイの任にある。
対するエジプトを纏めるは、ラムセス様。
幼き頃より鍛え上げられた屈強さは、十三歳で将軍になられるほどの実力の持ち主。
その戦略は常に考察されたものであり、考えた全ての策を実行させる力もある。
側に控えるは、懐刀のカエムワセト様。
エジプト一と吟われるその頭脳、そして、ラムセス様に鍛えられた兵としての技術。
まさに文武両道の鏡だ。
相手にとって不足はない。
そんな心境だろう。
力も戦力も五分の戦い。
隙を見付けた方の勝利になる僅差の戦い。
それから数日後、ラムセス様ムルシリの隙をつき、大きく崩された戦況。
一気に攻め込み、ヒッタイトを追い払って戦いに勝利した。
「ラムセス様ーーー!!」
「ラムセス様!!万歳!!」
戦争に勝利したという事実は、瞬く間にエジプト全土を駆け巡った。
凱旋帰国されたラムセス様を待っていたのは、無数の民。
その勇姿と皇太子即位の儀を一目見ようと、王宮の前へ集まっていた。
どれもこれもが異例の事態。
エジプト中が喜びに溢れている。
そして、凱旋直後の即位の儀。
本来ならば、皇太子就任を喜ぶ民もいなければ、式典を準備もせずに行うことなどあり得ない。
どれもがラムセス様のこれまでの働きの結果であり、それを認めた民の心。
「我が名により、ラムセスを次期ファラオとして認め、皇太子の任を与える!!」
セティ様の一言でエジプトが揺れた。
王宮の祭壇前、セティ様とラムセス様が立つ。
膝をつき、頭を垂れたラムセス様。
その頭に、皇太子冠を乗せたセティ様。
その瞬間、再度エジプトが揺れた。
エジプトは湧きに湧いていた。
それからラムセス様は、王宮の近くにある皇太子殿へ引っ越された。
18王朝末期に建てられた皇太子殿には、本殿と後宮があり、300を越える部屋には、政務室、書斎、寝室等、お忙しいラムセス様が今までのように出掛けずともおおよその活動が出来る。
王宮から離れ、自分の屋敷を持っていたラムセス様。
その引っ越しは直ぐに済んだという。
それから数日後、ラムセス様のお屋敷からネフェルタリ様が正式な皇太子妃として迎え入れられる儀が行われた。
宮と屋敷のちょうど中間にラムセス様が待つ。
ネフェルタリ様は屋敷を出ると、ゆっくり歩く馬車に乗り、人で埋め尽くされた沿道に笑顔で応えながらラムセス様を目指す。
道は兵が配置され、動乱に備え警備された。
ネフェルタリ様を一目見るために、エジプト全土の民が押し寄せていたからだ。
…ラムセス様のご命令だった。
私もネフェルタリ様を見たくて、沿道から少し離れた場所に立ち、今か今かと待ちわびる。
そして訪れる。
次第に大きくなってくる喜びの声。
比例して大きくなってきた馬車の影。
正面に見えるは騎馬に跨がるラムセス様。
ラムセス様の前で停まった馬車。
そこから、綺麗に着飾ったネフェルタリ様が出てきた。
(ネフェルタリ様!お綺麗です!おめでとうございます!おめでとうございます!!)
目に焼き付けるように見、そして、その場で膝まづくと何度もひれ伏して祝福した。
その時だった。
「きゃぁああああ!!ラムセス様!!」
ネフェルタリ様の雄叫びにハッとして頭を上げた。
同時に、一本の矢が私の服を貫き、背後にあった木に縫い付けられた。
(なっ!?…何事!?)
出来事の展開についていけず、油断した。
(そうだ!ネフェルタリ様は…!)
矢を後回しにすると、ネフェルタリ様の方へ目を向けた。
「貴様!何奴!!」
「!!」
「怪しい奴め!!ワセト!!引っ捕らえよ!!」
ネフェルタリ様を庇うように前に立っていたラムセス様が、私を見て放った矢だと気付いた。
そのラムセス様は、ニヤリと意味深な笑みを浮かべていて…
(この人混みなのに、気付かれた!?)
凄い警戒心。そして、視野の広さ。
驚いている暇はない。
とにかく矢を外さなければ。
騎馬に乗ったカエムワセト様が勢いよく近付いているのが見えた。
「…え!嘘!!」
ラムセス様の矢は、木に深く刺さってなかなか抜けずにいた。
恐らくそれも計算のうちだろう。
矢をそのままに服を破る。
直ぐに走り出すも、騎馬には勝てず。
「…いらっしゃい、ムトナ。」
「……………」
首に剣を当てられ、動きが強制的に止められた。
カエムワセト様を見ても、やはりニヤリと笑みを浮かべている。
「観念しろ。ムトナ。」
「お見逃しください!」
「お前を捕らえよと皇太子殿下のお達しだ。見逃すわけがなかろうが。」
「カエムワセト様!お願い申し上げます!」
「諦めよ。…隙を見せれば逃げ出すお前に会える日は、今日だと思っていたぞ。」
「…え?」
「ネフェルタリ様にお会いできる日は今日だけだもんなぁ?ムトナ。本日、お前はネフェルタリ様の皇太子妃即位の祝いの品だ。」
「なっ!皇太子殿に立ち入ることなど出来ませぬ!お許しを!…あっ!」
「宮の主人がいいと言っているのだ。行くぞ。」
縄で身体を括られ、フワリと身体が浮いて騎馬に乗せられた。
「か!カエムワセト様!くっつきすぎです!」
「騎馬一頭に離れて座れまい。我慢せよ。」
そうして、強制的に連れられた初めての皇太子殿。
見慣れない雰囲気と不安に胸の高鳴りが収まらない。
ある部屋へ入れられて、しばらくするとラムセス様がカエムワセト様と共に入ってきた。
「…フン!俺の目から逃げられると思ったか?」
「ラムセス様!…いえ、皇太子殿下!どうかお見逃しくださいませ!」
「おいおい。祝いの言葉もなしか?」
「…ッ!……皇太子就任おめでとうございます。」
「ハハッ!素直な奴だ!」
からかわれたということにそこで気付いた。
少し睨みを効かせて見上げるも、動じることなく会話を続ける。
「ムトナよ。お前のお陰でヒッタイトに勝利できた。影の立役者よ。礼を言う。」
「何をおっしゃいます!すべては皇太子殿下のお力でございます!」
「…そういうところが俺の信頼に値する数少ない人間の一人だ。それなのになぜ俺から逃げるのだ。」
「…殿下…わたくしは殿下のお側にいることは出来ませぬ。誰の目から見ても卑しい身分の者ゆえ、殿下の名声が悪くなります。」
「それは俺に対する戒めか。」
「違います!…そんな…!思ってもないことにございます!」
「ムトナ。…お前を鞭打ったことは後悔しておらぬ。お前の罪に対する罰なのだ。しかし、お前を追い詰め、屋敷を去らせたことは後悔している。」




