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我が身を案ずることなかれ  作者: 水嶋つばき
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翌日の昼過ぎ。


「旦那様がお帰りになられます!」


侍女の報せが屋敷内に響く。

一瞬にして安堵の涙が流れ出したネフェルタリ様は、直ぐに玄関先へと走り出した。


「ラムセス様!ラムセス様!」

「ネフェルタリ!?…どうした?」

「ラムセス様…ご無事で…抱き締めてくださいラムセス様…」

「…ああ。今戻ったぞ。」

「お帰りなさいませ…お帰りなさいませ…」


これが恋というものか。

これが愛というものか。

主従関係以上の絆だ。

無事を願い、無事を確認しただけで安堵の涙を流すもの。

私だって、ネフェルタリ様を何日も拝見できないとなると、きっと狂ってしまうほど心配する。

とても似ているが、違う。


「…!!」


瞬間、殺気に似た視線を感じた。

キョロキョロと見回したが、怪しいものは誰もいない。

ゆっくりと視線を上げると、ラムセス様が凄い形相で私を睨んでいた。


「……ムトナ。下がれ。」

「……はっ。ラムセス様。」


さすがラムセス様。

直ぐに見破った。

そこから下がると、柱の影に隠れていたカエムワセト様が現れた。


「…ムトナ。なんと愚かな…」

「申し訳ございませぬ。」

「何のためにラムセス様があれほど伏せていろと命じたと思っているのか。」

「申し訳ございませぬ!」

「…ネフェルタリ様…か?」

「……………」

「ムトナ。ネフェルタリ様がしつこく聞き出したのであろう?」

「違います!わたくしが勝手に申し上げました!ネフェルタリ様はそんなことをされてません!」

「…お前は嘘が下手だな。…そして、ネフェルタリ様にだけは忠実な女だ。」

「カエムワセト様!本当です!」

「私も貴族の身分。そなたの嘘を今すぐ罰することもできるのだ。ラムセス様を甘く見ていたな。ネフェルタリ様の御為ならば、非情極悪な鬼に変わりうせる。

…覚悟の上で地下にて待っていよ。」

「…はっ。」

「……本当に……愚かだ。ムトナ。」


哀れむように私を眺め、静かに去っていった。

この屋敷の地下には、幾つかの部屋がある。

重罪人を連行したとき、一時的に拘束場所となる牢屋。

そして、処刑場所。

三つ目が拷問部屋。

奴隷国家だったエジプトでは、軍将校クラスにもなれば、このような部屋を自分の屋敷に持っていた。

ラムセス様は地下を使うことを極力避けるお方。

しかし、今のラムセス様をお止めすることはできない。誰より愛しく思っておられるネフェルタリ様が苦しんでおられるのだから。

私のせいで、苦しんでおられるのだから。

怒りに燃えたぎり、その元凶をどうにかせねばお気を沈めることなど出来ないだろう。


覚悟を決め、深く息をする。

私はどの部屋に行けと言われるのか。

どんな罰が下るのか。

不安だが、なぜか心は穏やかだった。


地下に来て、かなり時間が過ぎた頃、急に背中を蹴られて身体が飛ばされた。

体勢を整えるまでもなく、倒れた先でお腹を蹴られた。


「……っ!!!」


ボキッ!と鈍い音がした。

どうやらあばらが数本折れてしまったらしい。

それもそうだ。

私は女で相手は男。

護衛が出来るほどの訓練は受けているものの、屈強な軍人相手では歯が立たない。


足音が近付き、髪の毛を引っ張られて上を向かされた。

殺意の込められたラムセス様の目。


「…貴様、我が言葉を忘れたか。」

「申し訳ございませぬ!」

「ネフェルタリを思えばこそ黙るべきだった!あれの腹には子がいるのだぞ!」

「申し訳ございませぬ!!」

「あんなに痩せ細って……ネフェルタリを殺すつもりか!」

「申し訳ございませぬ!!!」

「許せぬ!……ワセト!」

「はっ。」


カエムワセト様に腕を引かれ、入った場所は拷問部屋。

壁にある鎖に両手両足を繋がれ、大きな鞭を持ったラムセス様が現れた。


(殺す気だな…それでも構わない)


自分の罪は取り返しつかない。

大切なネフェルタリ様を、あれほどまでに苦しめた。

ラムセス様の命令に背いた。


(…絶対声は出すまい)


もう一つの決意をして、振りかぶった鞭の動きをしっかりと見ていた。


「…貴様!苦しみもせぬのか!」

「…………!」

「声も出さぬか!」

「…………!」

「強情な奴だ!許せぬ!許せぬ!!」


この時代、鞭打ちが当たり前の拷問。

奴隷たちは、家畜のように監視官から鞭で打たれ、動き出すまで続けられていたため、それによって命を落とす者も多かった。

それをされている私は、奴隷以下として扱われ、死ぬまで打たれ続ける気だろう。


心残りはネフェルタリ様だけ。

私の人生は、ネフェルタリ様のものだった。

お会いできてよかった。

幸せだった。


(さようなら。姫様。ありがとうございました)


心で何度も謝り、何度も感謝した。

もう…気を失いそうだ。

命がなくなるときは…痛みも感じないのか。

100回以上も鞭で打たれた私の身体は血にまみれ、肉片が捲れ、見れたものではない。


「…ラムセス様。もうそれくらいでよいではござらぬか。」

「…何だと?ワセト、この女を許せと申すか。」

「そうは申しておりませぬ。」

「ならば口出しを致すな。」

「口出しと言うより、先見でございます。」

「先見…とな?どういう意味だ。」

「この者を許せとは申しませぬ。しかし、この者はネフェルタリ様の側近。心を通わせる親友と申しておりました。

…死すれば、ネフェルタリ様のご心痛はいかばかりかと思えば、殺すことは控えるべきなのでは?」

「……………」

「…ラムセス様も、この者のこのような姿を見れば、お気が済まれたでしょう。

湯あみの後にネフェルタリ様のお側についておかれた方が良いのでは?」

「…お前…初めからそのつもりであっただろう。だからここに控えていたんだな。

お前の言う通りだワセト。こいつを下ろして放っておけ。死ぬも生きるもこいつの自由だ。」

「はっ。」


…恥だ。

死ぬ覚悟をしていた自分の死さえ認められない。

鎖を解かれ、床に倒れてしばらく経った頃、カエムワセト様が桶いっぱいの水と手拭きを持って無言のうちに出ていった。

情があるのか。無情か。

悔しさで涙を流しながら水を飲み、残った水で血を洗い流した。


何日過ぎたのか。

疼く痛みに耐え、慣れてきた頃に気付く蛆。

自分の傷口に住み着き、死臭が漂っている地下で生を得ようとしている害虫。

ゆっくり立ち上がり、階段を登る。

そこに鍵は掛かっておらず、月と星が辺りを照らしているだけで、人がいる気配もない。

足を引きずりつつ侍女の湯殿に入ると、身体を溜まっている湯船に沈めた。

半時ほど浸かっていると、溺れた蛆が身体から水面へと浮かび上がった。

荒布で身体を擦り、腐りかけた皮膚や肉片をこそぎとる。

湯船から上がると綺麗に洗い流し、自分の身体を見ると、なんとも無惨な姿。

ヨモギを湿布して包帯で巻き、ドクダミ茶を飲んで身体の内から浄める。

それらが終わると、いつのまにか足を運んでいたネフェルタリ様のお部屋。

その入り口に護衛兵とカエムワセト様が立っていた。


「…ラムセス様…ムトナはどこです?姿が見えなくなってもう8日です!」

「ムトナは遣いに出している。じきに戻るであろう。…泣くでない。」

「わたくしは、あの子に酷いことを申しました!早く謝らねば…ラムセス様!呼び戻してくださいませ!お願いです!」


ご寝所から聞こえるお二方の声が聞こえ、胸が引き裂かれるような感情を覚えた。


「…ムトナ。出てきたのか。」


柱の影で泣いていると、カエムワセト様が私に気付き近寄った。


「…はい。ラムセス様とカエムワセト様のご慈悲、そしてエジプトの神々により生き永らえてございます。」

「聞いての通り、ネフェルタリ様が少々ご乱心の様子。明日、そなたに会わせるゆえ、支度を整えてお待ちせよ。」


その言葉に、首を振った。

目を丸くして私を見たカエムワセト様にこう告げた。


「…わたくしは、今からここを発ちます。」

「…何?」

「カエムワセト様。いろいろとお世話になりありがとうございました。ネフェルタリ様のことを宜しくお願い致します。」

「待たれよ、ムトナ。どこに行くと?」

「…分かりませぬ。しかし、これだけは分かります。わたくしはネフェルタリ様のお側にいることはならぬと。」

「ムトナ。屋敷での仕事は山ほどある。」

「いいえ。ラムセス様の品位に関わること。つまりはネフェルタリ様を悲しませることになります。」


拷問を受けた傷は生涯消えない。

奴隷以下として扱われた私が、格式高いこの家で侍女を続けるなどあってはならないのだ。

奴隷を侍女にするなどということは、周りからラムセス様が偏見されるのは目に見えている。

目を瞑れば、ネフェルタリ様と出会った幼少期の様子が鮮明に目蓋に映される。

明るく、活発で、お美しい姫様。

これだけで私は生きる糧を得られる。


「…ネフェルタリ様にお伝えください。ムトナは遣い先で戦闘に巻き込まれ死したと。

これで諦めがつくでしょう。しかも足がこの有り様。恐らく今までのようには歩けませぬ。姫様の護衛は難しいでしょう。

…あの方はわたくしの光の女神。わたくしは、側でお仕えせずとも、影として姫様のことを支えます。」

「待たれよ!何を申すか!お前の采配を決めるのも我が主次第。」

「ラムセス様はお引き留めになられるでしょう。それではだめなのです。ですから今出ていくのです。ラムセス様とネフェルタリ様の御為に。」

「…お前は…何て女だ…今まで会った女の中で一番賢き女よ。ラムセス様の名を言えば…私は何と申せばよいと言うのか。」

「お言葉、ありがとうございます。…では、失礼致します。」


ご寝所のドアの前で三度ひれ伏し、静かに屋敷を後にした。

とても気持ちのよい、満月の夜だった。

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