2-1
「ネフェルタリ!ネフェルタリはおらぬか!」
「ラムセス様!お帰りなさいませ。」
「ムトナ。ただいま。ネフェルタリは?」
「ただ今、湯殿にて」
「ネフェルタリ!」
「お…お待ちを!ラムセス様!」
婚儀から三年、将軍となったラムセス様は、ただお一人の妃ネフェルタリ様に特別なまでの愛情を注いでおられた。
私は、ネフェルタリ様と一緒に、ネフェルタリ様付きの侍女として、ラムセス様のお屋敷に召される運びとなった。
王子殿下の屋敷で働くなど、この頃の侍女にとっては大出世である。
「ネフェルタリ!」
「きゃあ!!ラムセス様!!」
「一緒に入るぞ。」
「お恥ずかしい!出てって!」
「アハハ!何も恥ずかしがることはあるまい。毎晩毎夜、見てるではないか。」
「まぁ。あたかもわたくしがそれだけのための道具にすぎぬとおっしゃられるの?」
「…え?…いや、違うぞ。」
「そう申しておられるも同然でしょうに。」
「違う。…参ったな…ネフェルタリ?」
あたふたし始めたラムセス様が可愛らしく見え、思わず笑みが溢れる。
『ムトナ。最近ね、ラムセス様が可愛いのよ。どうしたのかしら。』
『左様ですか。』
『からかうと、必死に取り繕う言葉を探すの。でもね、いつだって私の負け。可愛くて、直ぐに折れちゃうの。』
ラムセス様不在の時、私は出来るだけネフェルタリ様のお側で時間を過ごすことが多い。
友として接して欲しいと願っている時は、良き友としてお相手するのが昔からの習慣。
大きな屋敷で過ごすのは寂しい。その思いが伝わってくる。
それが分かっているラムセス様は、屋敷にお戻りになると、こうして直ぐに駆け寄ってくるのだ。
「…ラムセス様ったら。そんなお顔、ずるいです。」
「何のことだ?」
「わたくしは怒ってるのですよ?ひどいって。」
「…飽きぬ奴だ。面白いか?」
「……………」
「ハハッ!そうか。面白いか。いつでも付き合ってやる。」
…でも、どうやらラムセス様の方が一枚上手。
すべてをご理解の上、ネフェルタリ様との時間を楽しんでいるご様子だ。しかし、こんな時間は長く続かないことを知っている。
「ラムセス様!ラムセス様!」
「どうした。ワセト。」
「ファラオより勅命が届きました。」
「…分かった。そこに控えていよ。」
どちらも寂しそうなお顔。
もっと共にいたい、同じ時間を過ごしていたい。
そんな思いが伝わる。
「…体調はどうだ。」
「はい。わたくしもこの子も元気です。」
「そうか。ムトナ、ハチミツやミルクはあるか?毎日食させよ。」
「はい。ナツメやピスタチオ、アーモンドも毎食与えております。お気を召されますな。」
「ああ。ネフェルタリ、このところ時間がとれずにすまぬ。」
「大丈夫。わたくしは一人じゃない。ラムセス様の方が心配です。」
「俺のことは構わん。」
キラキラ輝く水面に写るお二人の姿。
深く口付けられたラムセス様は、悔しそうに離れて湯殿を出ていった。
「…ムトナ。」
湯殿から出られてお召し替え中、ネフェルタリ様から話し掛けられた。
「はっ。」
「…どういうことなの?」
「……………」
ネフェルタリ様の才知はさらに磨きをかけて優れ、私はいろいろと誤魔化すのを覚えた。
現在、お腹にはラムセス様とのお子が宿っており、ラムセス様から「内外問わず守り抜け」との沙汰がくだっていた。
つまり、屋敷の外の状況を教えるな、そして、屋敷の中では気を許すなということ。
「ネフェルタリ様。私に聞かれましても、存じませぬ。ネフェルタリ様に話されないことを、どうしてわたくしが知り得ましょう?」
「……そうね…そうよね。」
「そうです。カエムワセト様ならともかく、わたくしは存じません。役立たずで申し訳ございませぬ。」
「……………」
どうやら納得されたようで小さく息を吐いた。
…が。
「ならば質問を変えましょう。
ラムセス様は最近とてもお忙しそう。将軍ならば師団と関係があるのでしょうね。ムトナ、火急のファラオ勅命なら国内のこと。どこかで内戦が起きているの?」
「……ネフェルタリ様。」
「フフ。…忠実なムトナ。心優しき我が友よ。…香油を塗ってもらえる?」
「畏まりました。」
私とネフェルタリ様の関係も、どうやらネフェルタリ様の方が一枚上手。
食事には細心の注意を払い、毒が混入されていないか調べる。
ある日、毒味役の侍女が毒に当てられた。
その日以降、ネフェルタリ様のお食事は、私が作っている。
ご寝所に入られるときもそうだ。
毒性の強い蛇や蠍が投げられたこともあった。
誰が敵で誰が味方か分からない。
ラムセス様の第一妃ゆえの妬み、もしくは、ラムセス様をよく思ってない人からの嫌がらせ。
屋敷の中ではこんな状況なのだ。
「ネフェルタリ様は、お子のことだけをお考えくださいませ。他はラムセス様にお任せすればよいのです。」
「分かっています。ただ…」
「…どうされました?」
「わたくしは、ラムセス様のお苦しみや疲労を少しでも分かち合いたいと思ったまで。身重で屋敷外へ飛び出す無茶はしないわ。」
「ネフェルタリ様…」
「守られている分、守ってあげたいと願うのは可笑しなことかしら?」
「決してそのようなことはございませぬ!ラムセス様はネフェルタリ様をとても愛しておいでです!だから気苦労をかけぬよう、気苦労によりお子が流れてしまわぬように守ってくださっているのです!」
足許にひざまずき、真剣に申し上げた。
そこでハッ!となった。
「…ご…ご無礼を申しました!申し訳ございませぬ!むち打ちなり死なりご命令ください!」
子が流れる等、不吉なことを目上の人間に言うと罰があるのが当たり前。
覚悟の上で申し上げた。
「…面を上げよ。ムトナ。」
「申し訳ございませぬ!」
「…良き友とは、身分など関係なく私のために教え、戒め、怒り、喜ぶ者のことだ。そなたがわたくしへの裏切りや傷付けることを目的として言ったのではないことを分かってる。良いことに、わたくしたち以外の人間は聞いていない。何もなかった。それでよい。」
「ネフェルタリ様!…すみません…申し訳ございません…」
ネフェルタリ様は心優しき我が女神。
エジプトのすべての神々に感謝した。
死罪を申し付けるのではなく、許された自分の命。
わたくしは、この命をいずれネフェルタリ様に捧げようと誓った。
「…ムトナ?…そ・れ・で・ね?」
「………姫様ぁ………」
ちょっと感動したのに…このお人は……
感動を壊すほど、意気揚々とした顔。
「さ。一緒にお庭で遊びましょう?」
「姫様…!お許しくださいませ!」
「許さないわよ。早く行こう!」
結局、手をズルズル引かれて、庭に出た。
強引に聞き出され、根負けしてしまった。
「姫様。いいですか?お子が第一だということを念頭に置くことを、このムトナとお約束してくださいますか?」
「うん。屋敷からは出ない。ムトナと一緒にいる。約束する。」
「分かりました。お知りになりたいのは、ラムセス様の今の状況ですね?」
「うん!」
「…現在、ご察しの通り、内戦があちこちで起きています。主な原因は飢饉。上エジプトや国境付近の貧しい者が決起し、食料調達のために動乱が起きております。」
「…国庫は…底をついたの?」
「いえ。国庫は溢れております。しかし国庫を委任されてる皇太后様がお許しになりません。ラムセス様は何度も国庫を開けるように申請されておりますが、門前払いのご様子。
しかし、その事情を知らないセティ様が民を鎮圧せよと命を下しております。」
「なんと…無慈悲な皇太后…」
「はい。…民とてやりたくてやっているわけではない。国の改善とも言える決起なのです。お分かりですか?」
「ええ。…仕事を与えればお金が入る。そのお金で物が買える。単純なことが出来てない。」
「その通りです。仕事も与えられずその日食べるのもやっとの民がたくさんおります。でも、徴収だけはしっかりやる。
貧しいものから徴収するなど、国はどうかなっている。」
「ラムセス様のご心痛は…」
言葉を詰まらせて涙を流されたネフェルタリ様。
エジプトは衰退していっていた。
強国と言われたエジプトが、その力を失いかけていた。
立て直すためには、それを統べる者の器量だ。
現在のファラオ、セティ様は、現状をしっかり見ているが、細部までの注視がまだ足りない。
ラムセス様のような、民の心を分かっている人でなければ。
「…ムトナ。国内は分かったわ。国外はどうなっているの?」
「パレスチナ、そしてヒッタイトとにらみ合いが続いております。恐らく、近いうちに戦争になるやもしれませぬ。どちらかと言えば……ヒッタイトですね。」
「…戦争?そこまで緊迫しているの?」
「はい。ラムセス様も近く遠征に出向かれることになると思います。」
「…そう。分かったわ。ありがとう。」
それ以降は口を閉ざされ、一点を見つめて動かなくなった。
当時、オリエント最大国家の一つとして繁栄したエジプト。
ラムセスの父、セティ1世により、その繁栄はより栄華なものとなった。
しかし、先代のスメンクカーラーとツタンカーメンの時代に政治的な混乱が続いた爪痕は大きかった。
その栄華も傾いていく。
時を同じく、ヒッタイトは皇帝、シュッピルリウマ1世の時代。
ヒッタイトはアムル王を確保し、エジプトの影響力を排除させることに努めた。
エジプトの混乱に乗じ、後の皇帝、ムルシリ2世はシリアを制圧。シリアはヒッタイトの支配下に置かれた。
ムルシリ2世は、ユーフラテス中流の要都市エマルをカルケミシュ副王の傘下に置くと、シリア支配の拠点とした。
エジプトは、そのシリア奪還のために尽力するも、度重なる戦争は、国内不安定のエジプトにとって大打撃。
その後、ヒッタイト皇帝ムルシリ2世の在位11年、カルケミシュでの戦いでヒッタイトが勝利した際、エジプト王ホルエムヘブと条約を結び、シリア支配を認めさせたのだ。
その日、ラムセス様はお帰りにならなかった。
二日が過ぎ、三日が過ぎた。
ネフェルタリ様は、日に日に食が細くなっていって、夜も眠れぬほど。
「…ネフェルタリ様。もう、お休みになられないと。」
「ええ。もうしばらくだけ…」
「ネフェルタリ様。身体が冷えてしまいます。お子のためにも、早くお休みに」
「だから!もうしばらくだけと言っているでしょう!直ぐに休むわ!
二言目にはお子お子と!お前に言われずとも分かっているわよ愚か者!そこに控えていなさい!この部屋から出なさい!早く一人にせよ!」
「………はっ。」
そこで初めて現在の国の状況を告げたことを後悔した。
長年お側でお仕えしているのに、ネフェルタリ様心情を私は計れなかった。
誰より知っているのはラムセス様であるということにも気付いた。
そうだろう。
私は恋というものを知らない。
恋する相手を心配する気持ちが、どれほどのものかを知らない。
「…申し訳ございませぬ。ネフェルタリ様。」
「……………」
「………申し訳ございませぬ。」
私に見向きもしない。
こんなことは初めてだった。




