失くしものと秋の空+飛翔怪獣***
・Autumn
あれ……、どこやったっけ……?
資料集が無かった。今朝、確かに鞄に放り込んだはずの。
鞄をもう一度改める。
机の中をまさぐる。
ロッカーを開ける。
四つん這いになって床を捜し回る。
ない。
「何失くしたの?」
天上から声が降って来た。よく知った声。
友人A。
「……資料集」
別の知った声が、自分の口から零れた。
私の声。
午後の教室だった。
予鈴が鳴っていた。甲高く、だるそうに。
私は資料集を失くした、ここで。
私。
私は失くし物をする。神憑り的な高確率、高頻度で。
「ほれ、机こっちやって」
友人Aが私と自分の机をくっつけていた。いつもの様に。
「ありがとう」
「隣のよしみ」
笑った、そう言って。
私はこの笑顔に助けられっぱなしだった。友人Aは隣になんていなくてもいつも助けてくれた。私のこの変な癖にも付き合ってくれた。何でかは知らなかった。何で、とは訊かなかった。
訊いたら、今この時の、この平衡を破いてしまう気がした。だから訊かない。この友人にただ感謝して、友達でよかった、と思う。
チャイムが鼓膜を揺らした。白髪の生物教師が白衣姿で黒板の前に立つ。五時限目の始まりだった。
私が失くし物を始めたのは、もう十年も前のこと。そして今も、それは悪化の一途を辿るのみ。
気にしても仕方ない。気にしても治りゃしないのだから。
私の自律神経系は今、副交感神経の優勢状態だった。消化器の運動はお昼のサンドイッチを分解せんと精力的に働く。血流はおなかに集中して相対的に脳へ送り込まれる酸素量は低下、処理性能は著しく低下している。つまりは眠い。
うつらうつら。
机の右寄りに置かれた資料集。
そこにある「ウニの発生」の写真が遠くなったり近くなったりしている。友人Aも似たり寄ったりに舟漕ぎ中。
これではいけない、と意識を窓の外へとやった。授業を聞いているから眠くなるんだ。その単純な真理の元に。
ムカつく位の真っ青な空があった。どこまでもは広がらず、校舎に切り取られて歪な多角形にしまった秋空。
それはあまり高く感じなくて、そしてそれが雲が無いからだと思いつく。
秋の高い雲が、空を高くしているんだと思う。
本当は雲の無い空のほうが高いはずなのに。天蓋の無い空。高く高く。
その高い空の先には宇宙がある。
……。
本当かな。
昔は、丁度失くし物を始めた位の年には、信じられなかった。
じゃあ、今は。
今も、理屈ではそうなんだ、と分かっているけど、星空を見れば疑いようは無いけど、秋の青空を見ている時は正直疑っていたりもする。心のどこかで。
あの空の向こうの先のずっと先には、人の知らない世界が、まぁ実際あるんだろうけれど、あってそこには何だろう、神様とかいるのかな。
小学生の頃、何度も鉛筆や消しゴムやぬいぐるみを失くした。何度も何度も怒られた。その度に私は言い訳をした。
『神さまが隠したんだよ』
幼い私の胸には、当時流行った、神隠しを題材にしたアニメ映画のパンフが抱えられていた。
カツカツ、規則的に白墨の音が教室の空気を震わせる。その音は私を幼い記憶の中から、更に遠くへと誘うには出来すぎた水先案内人だった。
おなかに行っていたと思った血液が瞼に集まってきて、私に閉じろと命ずる。
そう言われてはどうしようもない。私は言われるまま、視界を闇に染めて旅立った。
どこへだろうか。秋の空なら良いな、とか思ったのかもしれない。
・Ripple
目覚めると、そこはいつもの砂海。
視界に広がるは、八重の砂の波。
捜し物は見つからず、空から降ってくる槍はでも日に日に激しく、歌はしょうがなく喧しい。
辟易。
下を向いて歩いていると、この間まで捜していた月が満月の姿を呈してそこにいる。
失くし物。それは往々にして、忘れた頃に、必要なくなったときに、何度も捜した筈の場所から、何の前触れも無く、ひょっこりと顔を出す。
分かっている。失くし物はいつも目の前にあること。いつもあるからいつもあるけれど見つからないから失くし物。
もう私は月を捜していない。だから見つけた。これは確信で真理。覆しようの無いもの。私がそう思うのだから。
砂が波打つ。水面が揺蕩う。その向こうには数多の世界が漂い揺らぐ。
・Autumn
失くし物をした。
それはホームルームの終わった直後の事だった。
三々五々にクラスメートが帰路に着く中、ポケットに入れておいた家の鍵を失くしのに気づいた。
こればっかりは友人Aでもどうにも出来ない。ピッキングはいつの世でも犯罪だから。
もっとも、その友人Aも名前を失くしたと言って騒いでいてそれ所ではないようだった。
教室中、掃除当番を蹴散らして捜しても鍵も名前も見つからず、職員室の失くし物入れを見てみたが、知らない財布と髪の毛が入っているだけだった。
「……どこやったかな、鍵」
「それよりも私の名前だろ」
学校から百メートルも歩けば、そこには商店街の賑わいがあった。
学生相手の安くて多い飲食店が軒を連ねるその中を愚痴りながら二人して帰る。
でもきっと明日になれば、失くし物なんてすぐ出て来る。少なくとも友人Aは。そういうものだから。
軽い違和感があったけど、それはただ友人Aが名前を失くした所為で呼びづらいのと、私だけじゃなくて友人Aも失くし物をしたのが意外だっただけなんだと思う。
「それじゃね」
「……ばいばい」
だべっていれば商店街を抜けるのはあっという間。
友人Aも私もそれぞれの家路を辿る。
鍵が無くてどうやって家に入ろうかと思ったが、考えて見ればうちの玄関は生体認証だから鍵なんて必要なかったのを思い出した。じゃあ何で鍵を失くしたんだろう。
まあ、いいや。
取敢えずは、片付いた問題に胸をなでおろし、キーロックに右手の人差し指を差し込んで開錠。いやに重いなと思いながら玄関を開けた。
・Ripple
目覚めはいつも砂海。
いつものこと。
いつものように足元の月を見下ろした。
いつか捜していた三日月だった。
砂が震えていた。
透明な何の向こうには幾重にも世界が重なっている。
どこやったかな。
数多の星の瞬きを見つめて呟く。
失くし物はどこにも無い。だって目の前にあるから。
神の意志が私の世界を侵食したから。
世界を忘れてよ。
願うしかない。
忘れれば、そこに、きっと、多分、見つかる、かな。
私の世界、失くした、捜した、目の前の、気づいてよ。
神でないんだから。
神でないんだと。
・***
目が覚めた。
目覚まし時計が騒ぎ立てる。
もう起きてるよ。
叩く。
静寂。
ぱたりと倒れて文字盤が見えなくなった。
時間を失くした、私は。
沈む、またまどろみの中に、沈む。
時間が無い。
私の時間は目覚ましだけ。
目の前にある失くし物は、捜してもいないからあるわけない。
そして光が差し込んできた、カーテンの隙間から。
叩き起こす。私を。
そうして、私に時間が戻ってきた、取り返した。取り返したくないのに。
登校すると、いつもの校庭があった。
特措法により事実上の防衛出動を果たした自衛隊が、飛翔怪獣***殲滅の為、作戦拠点を設営していた。
教室に入ると一番に、今日提出するプリントを、珍しく私よりも早く来ていた友人Aが見せてくれと言ってきて、カバンを探してそれをすぐに見つけ出す。渡す。
真面目な顔で驚かれた。よく失くさなかったな、と。
一時限目が始まってからしばらく、***が校庭の自衛隊を襲っていた。三頭がかりだった。
耳を聾する轟音と共に、私のクラスのすぐ上の階が被弾。壊された。
自衛隊の反撃の流れ弾。
血気盛んな若い国語教師が、校庭に向かって、煩い、と怒鳴っている。生徒の何人かもそれに便乗した。
友人Aは隙有りとばかりに突っ伏して眠り始める。
わたしは筆入れの中を引掻き回して、赤のボールペンを捜していた。すぐに見つかって自分でも驚く。
どさりと大きな音がして窓際の席から外を覗いて見ると、***のうち一頭が口から真っ赤な血のあぶくをぶくぶくさせながら、校庭の隅に植樹された、針葉樹の群落の中に落ちて死んでいた。
腰と呼べそうな、体のくびれの所から生えた一対の翼が、ぽきりと言う音が聞こえそうなほど、綺麗に折れているのがいやにはっきり見えた。
残りの二頭は、商店街を越えて大き目のビルが建つ街の中心に飛んでいった。
***は空を飛ぶ。
そういう建物は絶好の標的。
私は消しゴムを失くした。
すぐに見つかった。
***が口から反粒子光線を吐く。ビルが消し飛ぶ。自衛隊の装備をなぎ倒す。
その光景。
疑問を抱けよ。
友人Aも、ほかのクラスメートも、先生も。
窓の外に広がるそれを気にもしない。
失くし物をしたことに気が付いた。
私の世界、どこやったっけ。
砂の向こうの世界。
波に揺蕩う世界。
あそこで失くしたんだ。
後で捜そう。
***が学校に向かってくる。
自衛隊がSAMを撃とうと連絡を取っている。
***が口を開けた。
反粒子光線が校舎と、自衛隊と、***の死体を分解する。
・Ripple
失くし物をした。この砂の海で。
砂の波がざわめいていた。前よりも更に。
失くし物は見つかるかな。波の向こうを覗いて見た。
世界がひとつも無かった。
世界を失くしてしまった、私は。
ただ漣の音が、もう新月になった月の上で、いつの間にかあったあの秋空の下で、ざわめき、ざわめく。
失くし物は忘れた頃出てくるんだ。
忘れよう、世界のこと。
それを必死に忘れた、砂海に一人ぼっちの私は。
神の力の前に、そんなことは容易。
忘れた。様々なことを。
秋の空から鍵や資料集や友人Aがどかどかと落ちてきた。
失くし物が沢山の失くし物に埋まって、また失くす。
降り積もる、沢山の失くし物。
でも世界は失くし物に入っていなかった。
砂の波の向こうには新月しかなくて、秋の空はいよいよ低くて、失くし物を見つけすぎて恒常性は壊れて、また私に失くすことを強要した。
***の世界で私は家の鍵を失くした。
秋空の世界で私は資料集を失くした。
失くし物が砂海の私の前に現れる。
でも世界は失くしたまま。
虚構。
気づかなかった。
失くした世界は見つからない。
忘れて頃に見つかる、失くし物。
神がものを忘れること。
その存在が消ること。
それは同義。
もう秋の空から何も落ちてこない。
失くし物の山がなくなっていた。
秋の空は見えなくなっていた。
そして私は、砂海を失くした。
目の前にある砂海、もう見つけられない。
砂海から捜し物が飛んでいった。もとある世界へ。
ああ、私は失くしてしまった。私を。
私が失くなって、捜していた世界が戻ってきた。
・Autumn
秋の空は相も変わらず高くて、どこまでも繋がっていた。
午後の授業は相も変わらず眠かった。
私は資料集に目をやる。
学期の初めから失くしていた資料集は折り目は無く、角も世間ずれする事無く尖ったままだった。
友人A、本名阿賀野あみは、今日一日ずっとそわそわしていた。今まで机の左過ぎるところが定位置だった彼女の資料集は、少しはみ出して、一人分の机に鎮座している。その有得ない光景に当てられたのかもしれない。
でも、そうならすぐに慣れるだろう。
私はもう慣れたから。
…………に。
そして今更気づいた。
机に消しゴムが出ていない事に。
筆入れをまさぐる。
新品当然の資料集を裏返す。
机の下を覗き見る。
「……どこやったかな」
・Ripple
波打っている。月は足元で砂海に洗われていた。
その向こう、無数に漂いさ迷う世界たちがまた失くし物をした。
失くし物を集めた。砂海の私は。
集めて、そして私も、失くし物をする。 砂海は、失くし物を受け入れ続ける。
終