アカネの日記3
いつも通りの朝の景色。
誰もいないリビング。
休日の9時半なんて、誰も起きてこないはずなんだ。
眠い目を擦って、参考書を開く。
昨日の復習、暗記物の確認、ペースと相談してここから最後の追い込み。
次の模試まで、あと10日。
せめて今回でC判定、乱れれば高校までの貯金が減る。
油断している暇なんて無い。1問でも多く解かなければ。
私は左手にペンを持ち、目を問題文に向けながら右手を机のいつもの位置に伸ばす。
複素、回転、ああ、これは座標で考えちゃダメな問題だ。
Z1,2でそれぞれおいて関数の形に、後はながらで解けるだろうか……
「……ちっ」
後は計算するだけなのに、私の右手はいつまでたっても紙を掴めていない。
仕方なくいつもの置き場に目をやると、ひと月前まで机に積まれていたコピー用紙の山が無くなっていた。
補充不足、油断すると直ぐにこうだ。
はぁ、と無駄なため息。
私の中のやる気が一瞬のうちに蒸発していくのを俯瞰から眺めているような、今は変な気分だ。
ノートはある。けど、ここに書くのを許せば消費は一瞬。
装丁と罫線にお金をかけられるほど、今の我が家に余裕は無いはずだ。
近くのホームセンターは、10時開店。
予定は乱れた、今更どうしようもあるまい。
先にお昼にして、買ってきてから通しでやれば今日の分は終わるだろう。
とりあえず、昨日の晩の残りを火にかけよう。
何にするかも、ながらで考えればいいや。
中学三年、義務教育最後の年。
当初の予定なら今年度中に、高校までの単元をとりあえずで終わらせるはずだった。
だいたいを目に通して内容を何となくでいいから理解出来ていれば、あとは残りの3年間で深めればいい。そういう目論見だったはず。
だけど、今の私は小鍋を温めながら既に2冊目になる英単語帳を眺めてる。――とか――とか、一体いつ使うんだろうかって専門用語マシマシのをわざわざ選んだ。じゃないと、足らないと思ったから。
私は焦っていた。
予定なんてとっくに追い越してるのに、まだ足りないと焦り続けていた。
いつか決めた目標、母を安心させてあげられるような娘になる。
いつかの決心、二度とごめんねなんて言わせない、もう一度母を引きこもらせる。
そんなの、多分とっくに出来てるはずなのに、心の底では焦って焦ってたまらなかった。
何が私をこうも駆り立ててしまうのだろう。
今の状況は、思い描いていた通りなのに……。
鍋の中は、昨日の湯豆腐から汁を取り除いてひき肉と素を混ぜて麻婆豆腐になった。
CookDoは凄いとつくづく思わされる。毎度初めて作るのに、それなりのクオリティの料理を私に作らせてくれる。
出来た料理を2人分のお皿に乗せて、付け合せの野菜とお米をよそう。
私の分をリビングに置いたら、そのままもう一人分をもって廊下に出る。
無音の中を、私の足音だけが響く。
スタスタとスリッパの音だけが、ここに私が居ることを示す。
ドアの前。
そこのとあるひと区画。
不自然にホコリのない長方形の跡の上に、私は持ってきたお盆ごと、湯気の立ったままのその料理を置く。
「お母さん、ここにご飯おいておくから。それから後でお買い物行ってくるけど、必要なものあったら言ってね」
そう言って、私はリビングに戻る。
また響くのは、スタスタというスリッパの音だけ。
人の声は、それ以上は鳴らない。
リビングに戻ると、私は自然と深呼吸をしていた。
時計を見れば、なんだかんだ10時を過ぎている。
だからといって、そう急ぐ必要は無い。
たかがコピー用紙、時代が昭和にでもならない限りは売り切れなんて起こらないはず。
私はご飯を食べながら、単語帳をまた眺める。
行儀の悪さは、不快にさせる人がいないなら許されるだろう。
外から戻ると、ピリッと香った。
CookDoはやっぱり凄いと思わされる。
「ただいまぁ」
廊下に響く、私の声。
そしてその後になるのは、カサカサとビニールと、スタスタとスリッパだけ。
非力な私は一目散に買ってきた荷物を置く。中には、明日以降の食材と、目的のコピー用紙。一枚一枚は微小なくらいの重さなのに500枚と有ると、もう馬鹿みたいに重い。
頭の中につい積分を思い浮かべた私は、もうすっかり数学に毒されているんだろうな。
時計は、14時を過ぎたあたり。
家を出たのはだいたい11時。
さて、どうにもおかしい。
こんなはずじゃなかったんだけど、色々言っても仕方がないのだ。
うっかり無駄遣いしてしまった時間分を取り返さないと。
「麻婆豆腐もダメ。あとは何作ればいいかな……」
忘れないうちに日付と料理名だけが書かれたノートに向かって、私は赤線でバツを引く。7/2、麻婆豆腐 ×。
7月2日、母が引きこもってから、ちょうど2年か。
一日一行で書いてるコレも、もうそろそろ一冊埋まりそうだし、さすがに被り無しだと限界がきそうだ。
残り一週間分しか埋まってないこれからの献立も考えながら、私は今度こそ問題を解く。
今日のうちは、もう手は止めない。握るのは、ペンか消しゴムか、箸かスプーンだけ。
晩御飯をモチベーションに、今はひたすら前進あるのみ。
……同じ味だと飽きるから、温めるときに味噌とか入れてみようかな、なんて。
――――――――――――――――
蛍光灯の明かりをつけてから、パイプ椅子に座った先生は言った。
「秋野。お前、メシは食えてるのか」
「えっ? 」
学校の体育準備室という個室で、お昼休みに担任の先生と2人っきり。
机にはコンビニで買ったんだろう、シャケのおにぎり。
手の動き的に私にくれるっぽいけど、聖職ともあろう先生が、一生徒にこんなことしていいんだろうか。
「ええっと、進路関係の話ってきいて来たんですけど……」
「食べながらでも話はできる、とりあえず食べなさい」
「は、はぁ」
促されるまま、受け取ってしまったおにぎり。
担任の力強い目線に戸惑いながらも、包装を破って口に運ぶ。
うん、美味しい。できたてからは程遠いのにこのやわらかさ、伊達にconvenienceを名乗ってない。
そういえば、コンビニご飯は久しぶりかも。なんだか懐かしい味がすると思った。
味覚や嗅覚には、思い出が強く結びつくらしい。
私も思い出が呼び起こされちゃったみたいで、思わず頬が緩んだ。
「その様子じゃ、やっぱりな……」
食べる私を見ながら、深刻そうな顔でそうつぶやく先生。
ああ、多分誤解してるなぁ。
今の私は、ただ思い出に酔ってるだけで、おにぎりくれた先生優しいとか、何日ぶりのご飯に感動、みたいに救いの手を必要としていた悲劇のヒロインとかでは無い。
ホントのところは、麻婆豆腐パクパクシンデレラ。
昨日だって、ちゃんと2人分は食べた。
並程度の食生活は送れているつもり、片親だからって、心配されるほどじゃない。
「ご気遣いは、ありがたいんですけど……私、ちゃんと食べれてるので、そこまでしてもらわなくても」
やんわりとだけど、こればっかりは訂正しなきゃ。
先生はきっと、小動物、それこそ犬とか猫とか金魚とか、そういうのに餌をあげるくらいの気持ちで私に恵んでくれたんだろうけど、そういうのはホントに必要な人に向けてホントに必要な時にやるべきだ。
じゃないと、いくら大人だって手が足らなくなる。
「そこまでってのは何だ。たったおにぎり一つだぞ」
「おにぎりが悪いって話じゃなくて、そのっ、こういうのは、良くないと思います」
食べかけのそれを手に持ったままこんなこと言うのは、かなり度胸がいった。
「何故だ」
「だって、このおにぎり、先生のお金で買ったものですよね。たったおにぎりの百十数円だとしても、そのお金は先生のご家族のための物です。信念とかあると思いますけど、先生はお仕事で業務です。もっと、使うべき相手がいるはずです。
第一、私ちゃんと毎日ご飯は食べれられてて、不自由無い生活は出来てます。それに私には母もいます。親がいます。だからこれ以上は、大丈夫です……」
無礼な物言いだっただろうけど、言いたいことは言えたから後悔なんてない。
ただ、担任と関係が拗れるのならせめて、夏休みが過ぎてからが良かったかな。
扉の外からはボールが弾む音がした。
キュッと鳴るシューズに、楽しげな笑い声。
「秋野」
「えっ、はい……」
途端に口を開いた先生。
私の苗字を発した声は、いつかすれ違いざまに聞いた、部員の失敗を咎める時の口調とそっくりで、私は自然と身構えていた。
「鏡、ちゃんと見てるか」
「えっ」
「はっきり言うぞ。秋野、お前の顔には死相が見える」
「死相、って……」と、私が思わず復唱したのは、そんな言葉を予想していなかったから。
「嫌ですよ先生、そんな縁起でもない言葉使って」
「縁起がどうとか言ってる場合じゃない。長年教員やってきてるが、そんな顔して卒業までまともに授業受けきれたやつは一人もいない。無理したやつはみんな、身体か心を壊してた。目の前に止められる機会があるなら、俺は、お前にそんなことして欲しくは無い」
「お、大袈裟な……先生」
おどけてみせても、先生の表情は眉ひとつだって変わらない。
「眠れていない理由はなんだ」
「いやっ、私ちゃんと眠れて……」
「頭のいいお前なら分かるだろう、そのクマじゃ言葉で誤魔化せる範囲を超えているって」
「……」
言い訳なんていくらでも出せるのに、頭の中に、クマだらけでぼさぼさ髪で頬がこけた、いつかどこかでみたの女の顔が浮かんできて、どうも意欲が削がれた。
「話しにくいなら質問を変える。平日の勉強時間は」
「……授業を含めなければ、8時間くらい」
先生は眉間に手を当て、下を向いて小さく息を吐く。
しまった、と思った。何をバカ正直に話す必要がある、これじゃあ本当に、助けが必要な人間だと誤解されてしまう。
「ああ、でも、それ以外の時間はちゃんとスマホ見たり本を読んだりとか」
「そんなの当たり前の事だろう」
「えっ……」
「……だとするならとれて5、6時間くらいか」
待って、と声にするのももう遅く、先生に寝不足の烙印を押される。
咄嗟についた嘘の威力がそのまま私にはね返ってきた。
「志望校は? それだけやるなら目標があるだろ」
「あっ、いや」
「なら、つきたい職業は」
「まだ、何も」
「じゃあ、なんでそこまで勉強を続ける。今のお前なら、2年あぐらかいてもどこにだって充分受かる」
「それは……」
適当に言えば、また墓穴を掘りかねない。
ただ、正直な言葉も分からなかった。
「……勉強が好きだからです」
頭の中を張り巡らせて辿り着いた答えらしき理由は、これだった。
私の言葉を聞いて、先生は頭を抱えだす。
牙が一本削がれたように、さっきまでの勢いと鋭さが無くなっている。
生徒の自主性を重んじる校風も相まって、強い言葉を使うことを躊躇っているみたい。
私にとって、チャンスと言うほか無かった。
「好きだからとはいえ、自分を追い込むほどなのか」
切り抜けるための突破口が見えた私は、そのまま畳み掛けた。
「物事は好きだからで上達するわけじゃないのは、先生だって野球部の顧問をなさってるから分かってるはずです。無理をさせることだって、数え切れないくらいあるでしょう」
心のどこかで、勝ったなんて思ってしまった。
少しの間黙り込む先生。
言い返す言葉もない、私の事を叱る理由が見当たらない。
三十分近くのやり取りはたった一手でひっくり返った。
自分が間違っているわけじゃないんだと、まるで立証されたようで嬉しくなった。
ただ直ぐに、それは恥ずかしい感情なんだと気づいた。
こんな小生意気な口調でも、先生は怒ることはしない。
それは多分、本当に心から心配してくれているから。
些細なことになんか目を向けていられないほど、私に向き合ってくれているのだと。
それから私は肩をすくませ、両手で持ったおにぎりを見つめた。
表情の変わった私を見てなのか、先生は優しく語りかけるように話す。
「お前なら分かると思うから言うぞ。本来、お前言った通り個人的な物の受け渡しはご法度だ。教員が身銭を切っても、それはあくまで集団のためだ。誰か一人のためなんてのはあっちゃいけないんだ。半月くらい前、数学の佐藤先生が、同じ要件でお前を呼び出そうとしていたのを俺は止めた、せめて担任である俺がだろうと。分かるな、秋野」
「……」
「酷かもしれんが聞くぞ、お前の母親は何をしている」
「……! 」
私が望んで、引きこもってますなんて言えない。
だけれど、自責の念に耐えかねて出てしまった言葉は、
「……もう、2年は会ってません」
それからの私を追い詰めた。
読んでいただきありがとうございます!!!
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作者のモチベーションに大いに繋がります……なにとぞm(*_ _)m




