溝口家、墓を建てる
溝口家の大黒柱、溝口父には昔からの夢があった。
それは墓を建てることである。
ある夏、溝口父もとい溝口少年は墓というものに憧れを抱いた。
そのきっかけは教科書に載っていた歴史上の人物の墓の写真である。
死者、その人の偉大さを死後何十年、何百年経とうとも伝え続ける不滅の石碑。
最後の家。寡黙な要塞。
学校から家に帰った溝口少年は父親に
うちの墓はどのようなものか、どこにあるのかと訊ねた。
すると父親はただ一言。
「ねえよそんなもんは」
唖然とする溝口少年。ない? ないとは?
脳内で暴動のような混乱が生じている一方で
父親は足の爪を切りながら、言葉を続けた。
「無縁仏だ無縁」
「おれぁは山にでも捨ててくれや」
「川や海でもいいな」
「どうだっていいや、排水溝でもいいぞ」
「お前もそうしてやるよ」
笑い、笑い、広げた新聞紙で足にかいた汗を拭いた。
テレビを見ていた母親も同調。二人の不快な笑い声が部屋と溝口少年の頭に響いた。
その時、溝口少年は強く思った。必ず自分の、自分たち家族の墓を建てると。
その家族に溝口少年の父親と母親は含まれていない。
家族とは時が経ち、溝口少年が溝口父へとなった現代。
息子娘である溝口長女、溝口長男、妻である溝口母のことである。
四人家族。こうして、お盆休みにドライブし、墓の前にやって来たのであった。
そう、溝口父は念願の墓を建てた。
尤も、溝口父はまだ若く、働き盛り。病気も死ぬ予定もない。
溝口長女は中学一年生。溝口長男は小学三年生である。
では、なぜ早々と墓を建てたか。
当然ではあるが死んだ後では墓を見ることができない。
それにしても気が早い、家より先に墓を建てるとは、と車の中で
溝口父を除く家族全員が口を曲げたが溝口父は構いやしない。
さて、その念願の墓であるが「どうだ大きいだろう」と溝口父、ご満悦。
「でかいと言うか、岩じゃない?」と溝口長女。「岩ね」と溝口母。
「岩だー!」と溝口長男がガッと墓石に飛びつく。
確かにそう、岩である。山からそのまま運んできたような大きな岩。
所々に苔が生え、土で薄汚れ。蟻が駆けている。
溝口父が業者にあれこれ注文を付けた結果こうなった。
とにかく大きく。見上げるくらいでなければ駄目だ。後は安く。とにかく安く。
無論、重ね重ね言うが墓を建てるというのは溝口父の夢である。
当人は金に糸目は付けないと言いたかったところではあったが
妻である溝口母に無駄遣いするな、子育てに金がかかると釘を刺された。
この件で何度か衝突があり、溝口父は折れ、そして溝口父と交渉した業者も折れ
この結果となったのだ。
しかし、『そのせいで』とも『安かろう悪かろう』とも言うまい。
不幸とは突然、降りかかるものである。そう、その身に。
墓石に飛びつき、その頂上へ登ろうとした溝口長男。
高い所へ登りたくなる年頃である。猿ばかりの学校の教室。
その大将になりたい、しかし無理。器ではない。
でもここは教室ではない。内弁慶。家族の前でなら大それたこともできる。
溝口姉は「馬鹿ねぇ」と鼻で笑い、溝口母は「まったくもう」と呆れる。
そして、溝口父はというと大激怒。
大事な墓に登るとは! と言葉よりも先に手が伸びる。
溝口長男の襟首掴み、ぐいと引っ張った。
その時であった。
大きな影が揺らいだ。
そう、墓石が傾いたのである。
「わっ!」と声を上げる溝口長男。
「ふぬっ!」と鼻から息を出し、両手で岩を支える溝口父。
その頬は溝口長男の背と擦れ合う。
「えっ!」と驚く溝口長女と溝口母。
しかし動かず。動けず。いや、まさかまあ大丈夫でしょう、と正常性バイアスのみが働く。
が、岩はさらに傾く。「た、たすけろ!」と唾を飛ばし叫ぶ溝口父。
慌てて溝口長女と溝口母が駆け寄る。
しかし、溝口父の背中に触れた瞬間、「イヤッ!」と溝口長女はすぐに飛び退いた。
猛暑日。シャツの背中が汗で湿っていたのである。
父親に対して嫌悪感を抱く年頃。一般的。非難はできない。
その溝口長女とぶつかった溝口母、「わっ!」と驚き、その場で踏みとどまる。
と、そこへ岩がさらに傾く。とっさに溝口母が長女の脇から手を伸ばすもあえなく撃沈。
そう、撃沈。岩が完全に横倒しになったのである。溝口一家を下敷きにして。
「痛い! 痛い!」と泣き叫ぶ溝口長男。
「お前のせいだろ!」と怒鳴る溝口父。
「イヤ! イヤ!」とこちらも泣き叫ぶ溝口長女。
「ぐふっ、ごふっ」と苦し気な溝口母。
これは、三人と大きな岩の重さがのしかかっているためである。
肺を圧迫され、息をするのも困難。しかし、溝口母は力を振り絞った。
「あ、あんたが墓なんか買うからぁ!」と、これだけのために。
それを聞いた溝口父は「お前がケチるからこうなったんだぁ!」と吠える。
泣く長男。ヒステリックに叫ぶ長女。
一家の悲鳴、怒号、叫び、骨がしなる音が墓場に吹く風に流されていく。
と、ここで溝口父が雄叫びを上げ、岩を持ち上げにかかった。
結果、少し浮く。ベンチプレスの要領である。
ちょうど下に土台があるため力を入れやすかったのだ。
言わずもがなその土台は長女と妻。悲鳴は一層大きくなった。
おかげで生じたその隙間を溝口長男が体をずりずりと動かし、脱出を試みる。
生意気に伸ばした襟足が溝口父の顔をくすぐり、溝口父は腹立たしく思った。
そしてさらに、お前が原因なのに自分だけ助かる気か! と
なんと溝口長男の服に噛みつき、逃さんとする。
「やめろ! はなせ! 死ね!」と悪態をつく溝口長男。
「親に向かって死ねとはなんだ! この、馬鹿!」と溝口父。
上段の二人の争いの最中も溝口長女は叫び続けていた。
重さと痛み、恐怖と父の湿った背中。この世のありとあらゆる不平不満
そして耳にかかる母の息に溝口長女は鋭い叫び声を上げた。
ゲップにも似たような音を発する溝口母。
次いで、ゴバゴボ溺れるような音を発した直後、温かい液体が溝口長女にかかった。
瞬間。溝口長女はこの前、初めて経験した生理が頭によぎり
それが血であることをすぐに理解した。
叫び、叫び、不快さと恐怖の共演はやがて恐怖の独壇場に。
押し迫る重圧に体が沈む。下にある母の体が凹み、広がるのを溝口少女は背で感じ取った。
骨が折れる音がする。それは母のものか自分のものか、それとも父か弟か
溝口長女自身の絶叫が不鮮明にした。
「あああああ! クソクソ! クソ親父! ああああ! 死ね死ね死ね!」
溝口長男が叫ぶ。それは溝口少年とよく似た声であった。
それにより、溝口父の脳内に今より遥か若かりし頃の記憶が蘇る。
『勉強の邪魔すんなよクソ親父! 死ね!』
『俺はあんたたちみたいにはならないからな!』
『生意気で上等さ! 絶対墓を建てる! 入れてやんねーぞ!』
『殴ったって無駄だ! 俺は決めたんだ! 俺は墓を建てる! 俺の家族のな!』
そして、ふと思った。
こんなはずでは。
それと同時に力が抜け、そして岩はまた少し沈んだ。
さらに間を置かずしてまた沈み、沈み、悲鳴も沈み、消えた。
彫られた文字には血が染み込み、後に起こされた時にはそれはそれは立派に見えた。
【溝口家之墓】
翌日のニュースでこの事件を見た、ある一家は思った。
「まあ、家族全員、お墓の下敷きに? よっぽど仲が良かったのねぇ」と。