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空海からの手紙  作者: 夏之ペンギン
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二通の嘆願書

嘆願書はかくして長官の下、届けられた。それはとりもなおさず長渓県代官の蘇の尽力が大きかった。蘇は長官の目に留まるよう、さまざまな手を打ったからだ。


「周長官、蘇英俊よりまた催促にございますが」


役人が上目遣いで長官の周律膳にそう告げた。腰を折り拱手しながらじっと長官の言葉を待つ。それが役人の作法とされた。


「まったくあきれたな。蘇のやつ、どうかしたんじゃないか?あんなガキが書いたような嘆願書に、また目を通せとは、いったい何を考えているのやら…」


たしかに二通の嘆願書は届いていた。それも代官の直接の重要通信に指定されてだ。なにもそこまでとはみな思った、たかが属国以下の未開の国のやつらの、薄汚い無教養をさらけ出したような文字など見たくもなかった。だがなぜあの蘇はそこまで言ってくる?


「書を…」


長官は根負けし、それだけ言った。まあ見るだけは見てやろう。ただし読んではやらぬ。それで代官への返事としてやろう。周はただそう思った。それが職務、なのだ。




嘆願書――


「な、なんだ?」


以前に見たやつと字がちがう。いやまったくの別物だ。恐ろしく達筆なのだ。唐でもこれほどの字を書ける者はそうはいない。いやむしろ倭国のものが書いたとは思えないほどだった。しかも嘆願の文も驚くべきものだった。これまでの経緯、現況、そして法制に則った手続きとその履行を穏やかにかつ強く訴えている。周はこれまでこれほど優れた文を見たことがなかった。


何ということだ。『科挙』に合格したものの中にさえこれほどのものはいないだろうと思わされるほど、その才をうかがわせるに足るものがあり、それはまさに戦慄に値した。


「誰かの代筆だろうがしかし誰がいったい…」


最初は秀才の誉れ高い蘇自身で代筆をしたのかとも疑った。だが蘇はよく知っている。これは蘇が書いたものではない。では一体だれが?それは二通目の嘆願書でわかった。


「『啓』?なんだこりゃ」


とうぜん目上の、しかも上奏する書につけるものではない。いまでいう、『元気ですか?』ぐらいのニュアンスだ。


「馬鹿にしてる」


そうも思った。ただ、それもみごとな筆跡だったため、怒りよりもむしろ興味の方が深かった。つい読んで、そして引き込まれてしまった。


それは大げさな文から始まりちまちました小娘の小言のようなもの、そうして王がその大義を言うかと思えば、裏町の産婆が世をおかしく話して聞かせるような、まあそれは荒唐無稽でしかも理路整然とし、核心は放さず読んだものの心だけを引きずる実に巧妙なものだった。遂に周はたまらず笑い出してしまった。


「いかがされました長官」


心配した役人どもがこぞって膝をついた。うるさそうにそれをやめさせると、ついに彼は大声を出した。


「長渓県に留め置かれた者たちを放免せよ。そして遇せ。かの者らは遣唐使として認めよう。わが国に学び、わが国の文物を広めんがため、かの国から来たのだ。そそうなきように、な」


役人たちは一斉に手続きに入った。この大帝国を支えるのは役人。真魚はこの国に来て、誰よりもいち早くそのことを知ったのだ。そうしてどうすればいいかを、この一か月、充分に学びそしてその策を練った。


「それにしても二十年とは大きく出たな」


笑った。留学期間二十年とは、長安でいまもっとも高名な高僧の玄奘(三蔵法師・三蔵に精通した僧のこと)が、出家し成都からひとり旅立ち、やがて西域をまわり長安までに至る年月を言ったもので、そういう最新の情報を混ぜ込みながらさりげなくアピールしているのが周にはたまらなくおもしろかったのだ。


会ってみたいものだ…そのおかしなやつに…。周は目を細め、そう言ったという。だがそれは叶わず、空海たちは長安に旅立って行った。別れの朝、蘇は三度地に伏せ、一行の無事と、そして空海の無事を祈ったという。


心ならず、ふたりの高官の心を動かした当の本人は、長安までの長旅のなか、暑くなっていく大陸の空気を存分に楽しんでいた、という。それを最澄は苦々しく書き残している。


さあ長安へ――もう真魚は面白くて仕方なかった。





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