夾竹桃 キョウチクトウ
「ヤバい?なんでそう思う?」
ますます蘇はこの青年に興味を持った。唐のみならずこの福州、そしてここ長渓県でもまあたいていの知識あるものだったらこの草木のことは知っている。だからたいていどこでも生えている。ときたま子供や家畜が誤って食べ、騒ぎになることもある。だがそれは薬として重宝されることもあり、たいした問題にはならないのだ。
「このまわりの土からキンポウゲやゴマノハグサを煎じたときに出る匂いと同じものが感じられます。これって毒草ですよね?それもかなり強烈なやつ」
「あんたは薬師なのかい?確かにそれは毒草だ。葉は浮腫みなどをとるとき薬として用いることもあるそうだが、素人はあまり手出しをしない。もっぱら葉花を楽しむためさ」
『夾竹桃』はインド原産の低木で、日本にはそのままキョウチクトウという名で江戸時代に伝わる。
おそらくこの青年は薬学の知識があるのだろう。仏教を学ぶ修行の僧にも見えるのだが、どうやら倭国の人間とは知識への欲求がかなり強いのだと蘇は思った。
「なるほど、やはり毒草だったんですね。いやあ、初めて見たけど、これはなかなかきれいに手入れされてるんですね」
「毒草に興味があるのかい?」
そういうと青年は嬉しそうに顔を輝かせ、それでもちょっと首をかしげて考える風にした。
「うーん、毒草っていうか、薬になるようなもの、草木や動物や虫、みたいなのにすごく興味があるんです。自分でも薬を作ったりして、たまに自分で試して、ひっくり返っちゃうこともあるけれど」
蘇はそれを聞いてちょと呆れた。でもあまりにも嫌味がなく、秀才面もひけらかさないその青年に少しの好意を抱いてしまった。
「わたしの屋敷に行けば、その書庫に『植物性譜』という書物があるんだけど。見たいか?」
「え?いいんですか?」
「いいよ。ただし、倭国のことを教えてくれるならね」
若者はそういわれてちょっと黙った。自国のことをしゃべるのは遣唐使として禁止されているのだ。そういうことを話せるのは大使の資格を持つ遣唐大使だけだ。大使は橘逸勢といって、真魚と同じ船で辛くも難破し沈没から逃れた。いまはあてがわれた部屋で不平不満の毎日らしい。
「別にいいですよ。もう何でも聞いちゃってください」
まあ大使があんな調子だ。こっちの身分も処遇もままならないし交渉もできない。このままここの抑留されたままではさすがに退屈してしまう。それならいっそ、相手の懐に飛び込んだ方がどれほど有益だろう。そう真魚は考えたのだ。それに朝廷以外の話なら差し障りはないだろうし、政治、軍事にいたってはもとより知る由もないからだ。
そうして代官の屋敷に通うようになった。
代官はなかなかの人物らしく、教養もあり人格者でもあったようだ。当時倭国は唐より格下である朝鮮のさらに格下の三流国とみなされていた。属国以下だから当然、ぞんざいに扱われても仕方なかったが、蘇は何より教養を重んじる人で、だから言葉の通じない遣唐大使の橘を軽く扱い、空海や最澄を重んじた。現に最澄は福州の各寺に参内し、その僧侶たちと交流していた。
とにかく彼はじっとしていなかった。借りた書物を持ってあちこち飛び回っていた。その書物に書かれているものの実物を見ないでいられないからだと本人も言っているほど、とにかく何でも興味を持ち、そして驚くほど深く学んだ。もともと教授然とした性格の蘇は、何かしらかわいい生徒ができたような気がし、とにかくそういったところで世話を焼いた。真魚もよくなつくので、しまいには親子のようにも見えてしまっていた。
「なあ真魚、いや空海どの」
「真魚でいいですよ、蘇さま」
「わたしも英俊でいい」
「じゃ英俊さま」
「もうひと月が過ぎようとしている。長安からの報せも遅い。疑いはもうとっくに晴れているというのにだ。これは…」
ひとえにあの無能な大使のせいだ、とはさすがに代官としては言えない。このまま真魚をそばに置いておきたい気もするが、さすがにこの優秀な若者の将来にも差し障るだろう。それだけは避けなければならない。蘇はもう優秀な教え子であり大事な息子のようなこの若者を、ここに無駄に留めおくことはできないと思ったのだ。
「昨夜大使に頼まれたんです。どうにかしてくれって。最澄さんにも頼んだそうなんですけど、仏法の習得に一途で世事に関与したがらないそうなので、やむなく俺にということですけど」
「あははは、それは面白い。そうだな、それは正しい。まああのボンクラも、ちゃんと見てるところは見てるってことだな」
蘇はそう言ってまた笑った。反対に真魚はしょげかえっていたのだが。きっと、めんどくさいなと思っていると、蘇はそう思い、またまた笑った。
かくして真魚は、遣唐大使に代わってこの地の最高官位たる福州長官に嘆願書をしたためることになった。つまり大使の代筆をするのだ。中国語、つまり唐の言葉もわからないボンクラがいくら上奏書を出したって音沙汰ないのは、教養を持って然るべき官位のものからすれば、あの大使の書など児戯のようなものとしてとうぜん破り捨てられていたのだろう。蘇はそれをずっと心配していたが、手を貸すことは他国のものにする親切でもないし、してもならないのだ。
かくして真魚は一晩でそれも二通、嘆願書をかき上げたという。