漂着
おどろく手紙の内容とは――
元気か、ちえ。俺もなんとかやっている。まあちえのことだから、相変わらず叔父さんを困らせながら過ごしていることと思う。じゃあかいつまんでこれまでのことをちょこっと教えてやるな。
あの日みやこをでて五月の半ば難波津を出港、俺たちを乗せた船は九州の博多、そして肥前、五島という大きな島を経由し、長い海路の末、ようやく大陸に迫ろうとしていた。
とにかく無事に唐にたどりついた、ああやれやれ。俺たちはだれしもそう思っていた。しかし運はいたずらだ。はからずしも俺たちはついに大きな嵐に遭遇してしまった。この時期には珍しい大しけだったと、あとで船おさから聞いた。四隻いた遣唐使船は嵐に巻き込まれそれぞれちりじりになってしまった。さすがにあのときは俺ももうダメだと思ったけどね。
「帆を降ろせ!帆柱がもたん!」
船夫のひとりが必死でそう言った。すでに暴風となった潮風に帆とそれを操る縄が耐えられなくなってきた。帆柱が折れたり、帆を降ろせばそれは漂流を意味し、もはや舵だけでは船はどこに行くかわからなくなるのだが。
「それじゃ岩場に引き寄せられて粉々になっちゃいますよ!余分な積み荷を捨て、帆は半分おろして、縄を増やしてみんなで引っ張り支えましょう」
誰だか若い僧侶がそう言ったが、すでに混乱している船夫たちには届かず、みな帆を降ろそうと絡まった縄をほどこうとし、さらにその縄まで鉈で切ろうとした者までいた。そうなっては本当に漂流し、最悪、岩礁に激突してしまうだろう。
「落ち着け者ども!縄を解くな!いうこと聞けねえやつは海に叩き込んじまうぞっ!」
そう船夫に大声で怒鳴るものがいた。この船の船おさだった。長柄の銛を船板に突っ立てて、みなをじろりと睨んだ。
「そこの若い御坊の声が聞こえたか!この時化で帆を失えばあとは運まかせだ。だが帆を残し、まだ船を操れば生きる望みは大いに上がる。どうする?生き死にを天に任せ、おまえらの尽きた運に身をゆだねるか?それとも死に物狂いで抗ってみるか?さあ、どうするっ!」
その場の船夫どもは雷に打たれたように飛びあがり、そして各自持ち場に散った。とにかくいまは帆を半分下げ、帆柱を縄で幾重にも支えることが急務だった。そうして余分な荷物は捨て、とにかく船を軽くした。船が重いとそれだけ帆柱に強い力が加わり、あっという間に帆柱は折れてしまうだろう。
船夫や遣唐使たちの随員までもがその作業に加わり、大波に何度も吞まれながらもなんとかしのぎ、ようやく朝が来たのだった…。
昨夜のあらしは嘘のように、その洋上は晴れ渡り、眩しい朝の日の光が満ち満ちていた。船上にはもはや力尽き倒れ込んで寝ている者どもが数多く、せっかくの陽光を知らずただ身に浴びているだけだった。
「夕べはよく言ってくれた。あんたがあそこでああ言ってくれなかったら、この船は沈んでいたろうな」
船べりに立っていた若い僧侶のとなりに来て、その船おさはそう言った。見るからに大男で、名を牧方日熊というその男は、かたわらの、まだ二十歳そこそこの若者に頭を下げた。
「よしてくださいよ。あんときは必死だったんで、えらそうに言っちゃったのをいまは反省してんですからね」
若者は照れたようにそう言って、ぼりぼりと頭をかいた。
「それにしても船に詳しいな。何度か乗ったことはあるのか?」
船おさが言うのはもっともだった。あれからこの若者は必死に船の姿勢を正そうと縄を引っ張り、そして多くのものに指示を出していた。それがどれもみごとに的確だったので、むしろ船おさがすることがなかったほどだ。
「いえ、小さい舟はありますが、こんな大船ははじめてです」
「へえ、そいつは不思議な話だ。が、仮にそうだとしたら、あんたは将来たいした船おさになれるだろう」
「いやそういうのはちょっと…」
口ごもりながらも若者は、それもまんざらじゃないなと、少し思った。
「あんた名前は?」
船おさは生涯忘れえぬその名を、そこで聞いた。
「空海といいます。なーんにもない空じゃなくて、雲も星も陽も雨も風もあるこの空と、このだだっ広ーいこの海で空海。ね、おかしいでしょ?」
なにがおかしいかは船おさはわからなかったが、その名は妙に若者にあったものだと、さんざん荒くれどもを見て使ってきた船おさは思った。いやそれはこいつの名前なんかじゃなく、それそのものがこいつじゃないかと、船おさはそう思ってしまった。
「なんにしても礼を言う」
そう言って船おさは若者の肩を何度もたたいた。海鳥が陸の近さを知らせる。目的地とはだいぶ離され流れてしまったが、こうして命が助かって唐についたのだ。少しは喜んでいいだろう。
だが喜んだのはほんのつかの間だった。