第526話 一葉知秋
ビートル辺境伯は多くを語らなかった。
それでも──言葉の裏にある思いは痛いほど伝わってくる。
王は声も権威も枯れ果て、代わりに響くのは「戦争」の二文字のみ。
民の暮らしなど視界に入らず、ガナルや東リムルガルドも荒れ放題だ。
領主が腐っているなら廃嫡し、善政を敷ける者を据えれば済むはず。
それすら動く気配がない。たとえ水面下で策を練っていようと、結果は一向に良くならない。
それに、蓋を開ければ、上級貴族の席には悪魔族。
ミリオルド公爵は魂をどこかに落としたまま、仮面で顔を隠し、目は虚ろ。
対外侵略に血道を上げる一方、国内では貴族同士が骨肉を削り合う。
ここまで綻びだらけで、よく王国を名乗れるものだ。
──もはや詰んでいる。そう断じても差し支えないだろう。
内情を知らぬ俺でさえ、ザルカムの末期ぶりは肌で感じる。
ならば、国の裏表を知り尽くすビートル辺境伯は――なおさらかもしれない。
「マルス。協力までは望まん。ただ、いざという時は黙っていてくれ。私がどんな手を打とうとも」
その眼差しには、退路を断った者の覚悟が宿っていた。
「――王を討つおつもりですか?」
「いや。ザルカム王にはいてもらう方が好都合だ。敵は、あいつらだ」
辺境伯の視線の先――ダンスホールの隅で群れている四人の影。
「なるほど……ビートル辺境伯とは、これからも良い関係を築けそうです」
深入りはしない。だが、孤軍奮闘するビートル辺境伯へ、俺の気持ちだけは伝えたかった。
その想いを汲んだのか、辺境伯の表情にわずかな笑みが戻る。
「呼び出して悪かったな――ほら、曲が変わるぞ。お姫様の前には、また長蛇の列ができる」
ビートル辺境伯の視線を追う。その先にはフレスバルド公爵と踊るクラリス。
その背後で、次の順番を狙う男どもが群れていた。
「ですね。では、失礼します」
頭を下げてホールへ戻った瞬間、音楽が切り替わる。
男たちが一斉にクラリスへ手を差し出すが、俺が前へ出て告げた。
「申し訳ありません。クラリスはずっと踊りづめでしたので、少し休ませていただけますか?」
列から漏れる落胆の溜息を背に、俺はクラリスの手をそっと取り、二人用のソファへと導く。
「大丈夫だったか?」
と、言っても俺はずっとクラリスを見ていた。
誰と踊っていたのかはすべて覚えている。
アイク、ジーク、ミック、ビラキシル侯爵にフレスバルド公爵。
どの顔ぶれも、安心してクラリスを任せられる相手ばかりだ。
きっと彼らも、俺の不安を少しでも和らげようと、手を取ってくれたのだろう。
「ええ、なんとか。でも少しゆっくりしたかったから、ありがと」
そう言って微笑むクラリスと肩を並べ、俺たちはテラス脇のソファでしばし静かな時間を過ごした。
――その穏やかさが、長く続くはずもないと知りながら。
そして――ついに、奴らが動く。
一人は、リーガン公爵を目指して歩み、
一人はホールの出口へと影のように消え、
一人はフロアをさまよって物色する。
残る最後の一人――
「やあ、クラリスさん。さっきの約束、覚えているよね? マルス君に勝った褒美――僕と一曲、お願いしたいんだ」
邪悪な笑みを湛え、ヨハンが俺たちの目前に立つ。
ラースはすでに扉の向こうへ。
アイク、スザク、ビャッコ、それにビラキシル侯爵がその影を追尾した。
リーガン公爵も視線を走らせたが、目前に現れたミリオルド公爵をないがしろにはできない。
クラリスは涼やかな微笑みを作り、差し出された手にそっと触れる。
「ええ。私も――あなたと踊りたかったわ、ヨハン」
その瞬間だった。
ヨハンの身体がビクリと痙攣し、血管が蒼黒く浮き上がる。
首筋から耳裏へ、うねる影――まるで寄生する蟲が皮下を走ったかのように。
――そういうことか!
ラースたちがクラリスを見つめた、あの視線。
あれは美貌に見惚れていたわけでも、色気に飲まれたわけでも、香りに心を奪われたわけでもない。
神聖魔法使いを――【聖女】の気配を、体内の蟲たちが本能的に拒絶し、奴らに伝えていたのか!
思い返せばライナーも同じだった。
呪われていたときは、ただクラリスを遠ざけ続けていたではないか。
――そしてヨハンも、その因果に気づいていたに違いない。
だが確証を得るため、あるいは自らの役割を演じ切るため、またはラースの命令に従いあえて接触を図った
そういえば、ズルタンがゲドーと取引をしていたときのことを言っていたな。
ゲドー曰く、ミリオルド公爵は神聖魔法は見つけ次第即殺す、と。
しかし、ゲドーはそれに逆らい、別の者にリーナを売りさばこうとしていたとサーシャからも聞いた。
その理由が今、はっきりと分かった。
このような事態を避けるためか!
俺程度の神聖魔法使いであれば、蟲も過剰な反応は起こさないが、クラリスともなれば話は別……ということか!
だがヨハンは相変わらず、邪悪な笑みを崩さない。
「不思議だね。クラリスさんに触れた途端、僕の体が――ほら、こんなにも悦びで震えてる」
皮膚下を蠢く影は止まらない。それでも彼は涼しい顔で、クラリスの手を離そうとしなかった。
しかし、その異様な蠢きに気づいたクラリスは、恐怖を抑えきれずに指先を震わせている。
「ヨハン、悪いんだけど、クラリスは慣れないダンスでまだ疲れているみたいなんだ。もう少し後でいいか?」
俺はそう言って、右手を下に、左手を上に、二人の手を軽く握り、やんわりと引きはがそうとした。
すると、クラリスも左手を俺の左手に添えるように置き、一言。
「ごめんなさい、ヨハン。私も楽しみにしていたのだけれど……」
「僕だって……興奮して、つい――」
ヨハンも手を添えようとしてきたときだった――
ヨハンの口が、そして体がまた震え始めた。
どうした――!?
今度は何が起きた!?
ヨハンの視線は見開き、まるで目の前に信じがたい光景が広がっているかのようだった。そこへ、ようやく絞り出すように呟く。
「マルス君、クラリスさん……僕、どうやら本当に具合が悪いみたいだ。それに、ラースは【剣神】とエリーさんを探しているだけなんだ。彼らさえ姿を見せなければ、ここでは動かないはず……ラースを追っていた奴らを早く止めた方がいい。じゃあ、また明日」
不気味な笑顔を残すと、ヨハンは足早にうろつく執事の下へ戻って行く。
なんだ……?
何かに気づいたのか……?
俺とクラリスは少しの間、その場で顔を見合わせていた。
ヨハンが何に気づいたのか。
ただ、ずっとここで考えているわけにもいかない。
アイクたちを止めないと……。
と、その時、クラリスを誘う声が。
「マルス、クラリスとも話しておきたいんだがいいか?」
振り返れば、ビートル辺境伯。
「はい! お願いします! クラリス、すぐ戻ってくる!」
クラリスをビートル辺境伯に預け、アイクたちが出て行った扉へ急いだ。
活動報告を見てください~
SSというかスピンオフというか、、、










