第525話 野望
十九時を迎えると、舞踏会に出席する者たちはすべて応接室へと招かれた。
応接室から繋がる庭も解放され、会場の人数は優に二百を超える。
シャンデリアの光が燕尾服やドレスを照らし、空気はすでに熱気を帯びていた。
この煌びやかな場に紛れた敵は、四人。
ミリオルド公爵、ヨハン、そして仮面をつけた執事が二名――そのうちの一人が、紛れもなくラースだ。
対する俺たちは、いつものメンバー。
公爵家の者たちはもちろん、ブライアント家、ランパード家、キャロル家といった俺に馴染の深い者たち。
なお、彼らにはクラリス以外の婚約者はすでに部屋で休んでいると伝え、ラースの存在も伏せておいた。一から説明するにはあまりにも骨が折れるからだ。
視線を会場に戻すと、部屋の一角には立派なひな壇が設けられ、その上には音楽隊が整列している。
壇上では、リーガン公爵が社交的な微笑みを浮かべたまま開宴の挨拶を述べ――
挨拶が終わると、音楽隊が一斉に演奏を始めた。
優雅な弦の調べが空間に溶け込み、舞踏会が始まる。
男性たちがそれぞれ意中の女性のもとへと歩み寄り、手を差し出し始めた。
もちろん、最初にクラリスの手を取るのは俺。
差し出した右腕に、クラリスがそっと左腕を絡めてくる。
制服越しに伝わる彼女のぬくもりに、心臓がひときわ強く脈打つ。
何度肌を合わせても、慣れることはないんだろうな。
ダンスフロアに歩み出すと、俺たちに視線が集まるのが分かる。
その中には、仮面の下のラースの視線もあった。
それに気づかぬふりをして、音楽に合わせてクラリスの腰に手を回す。
差し出した左手に、クラリスがそっと右手を絡めてくる。
胸元に近づいたクラリスの吐息が頬にかかり、その甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「やっぱり、ちょっと恥ずかしいね」
息がかかるほどの距離でクラリスが囁く。
「まぁね。でも……心地いいよ。心臓がバクバクしてるけど」
顔を見れば、クラリスもわずかに頬を紅潮させていた。
視線を外さずに、俺はそっと足の運びでポジションを変えた。
クラリスの背後にラースたちが見えるように、自然なステップで。
さすがに俺がずっと凝視しているのは不自然なので、クラリスとポジションを変えながら互いに監視の目を光らせる。
それは、俺たちだけではなかった。
視線を滑らせれば、アイクがビッチ先生の手を取り、優し気な微笑みを浮かべる一方で、ときおり、鋭くヨハンを射抜く。
スザクもまた、サーシャの細い腰に手を添えながら、優雅に踊るフリをしつつ、視線はしっかりとミリオルド公爵を見据えていた。
サーシャとビッチ先生のドレスは大きく背中の開いた、バックレスドレス。
会場の視線もよくそこに集まっている。
――事情を知る者たちにとって、ここは戦場だ。
けれど、多くの貴族にとっては、あくまでも一夜限りの華やかな社交の舞台。
ドレスの裾が舞い、グラスの中の液体が揺れ、笑い声が交錯する。
その中では、コジーラセが連れてきた華やかに着飾った女性たちに、リュートが片っ端から声をかけていた。
手慣れているようで、軽やかに会話を弾ませる。
一方で、コジーラセは、ヒルダを誘い、手を取ってダンスの輪へと連れていく。
ジークとマリアも大人気だった。
カストロ公爵からジークを誘い、マリアの手を握っているのはバルクス国王。
さらには、リーガン公爵がザルカム王の下へ歩く姿も見受けられた。
だが――そんな華やぎとは対照的に、部屋の一画で妙な雰囲気の場所が。
ラースを含む四人の男たちは、まるでその場にだけ冷気が立ち込めているかのように沈黙を保ち、ひそひそと何かを語り合っていた。
舞踏会を自ら提案しておきながら、一向に踊ろうとはしない。
周囲の流れから取り残されるような、あまりにも不自然な立ち振る舞い。
視線を漂わせ、何を探しているようにも見えた。
もしかしてエリーを探している?
その思った矢先――会場に響く音楽が切り替わった。
ゆったりとした旋律から一転、軽やかなリズムが奏でられ、人々は自然とダンスの手を解いていく。
「次のパートナーを」と、音楽が告げる。
誰もがその空気を察し、笑顔で挨拶を交わしながら、別の相手を探し始める。
名残惜しくもクラリスの手を離すと、すぐさま彼女の前には男たちが列を成す。
それはまるで、紳士の仮面をかぶった獣たちだった。
優雅な社交場のただ中にあって、そこだけ異様な熱気を帯びている。
中には「ちょっと待った」と手を挙げ、後から列に割り込もうとする者まで現れる始末。どこの紅鯨団だよ……と心の中で舌打ちをする。
見かねたアイクが最後に名乗り出ると、クラリスがホッとした様子で兄の手を取った。
その光景に、俺もようやく肩の力を抜く。
――さて、ラースたちを監視しないと。
参加者に会釈しながら彼らを見られる場所を探していると、背後から艶やかな声が響いた。
「一人で視線を這わせていたら、バレるわよ? 踊りながらの方が自然よ」
振り返れば、そこにはカストロ公爵。
豊かな胸元を惜しげもなく晒し、可愛らしく微笑みを浮かべている。
「そ、そうですね……ぜひ一曲、お願いします」
確かに公爵の言う通り。
ただ、さすがにカストロ公爵相手に踊るのは緊張する。
相手が公爵というのもあるが、こういう場に慣れていて、ダンスもうまい。
さらに厄介なことに、視線をわずかに下げるだけで、イブニングトレスからあらわになった豊かな谷間が、否応なく目に飛び込んでくる。
「マルス君? どこ見ているのかな?」
ふいに、少し首を傾げるようにして、上目遣いの視線を投げかけられた。
「あ、いえ、僕はダンスが素人でステップを踏むのに下を向いてしまって……」
何とか言い訳を並べながらも、声がどこか裏返っている。
自分でも苦しい言い逃れだと思った。
「ふーん。そうなんだ?」
わざとらしく白い谷間を寄せながら、俺の反応を見て楽しんでやがる。
たじたじになりながらもようやく一曲が終わり、ほっと息をつく。
幸いなことにラースたちの動きはまだない。
ここは少し休憩を……と、思っていると、不意に背後から声がかかった。
「マルス、ちょっといいか?」
その響きに視線を向ければ、そこには燕尾服を完璧に着こなした男、ビートル辺境伯が立っていた。
ただ、その表情はどこか険しい。
「は、はい……ただ、この部屋を見渡せる場所でよければ」
「……そうか、じゃあ庭に出ないか?」
ビートル辺境伯に促され、俺たちは庭へと向かった。
庭でも踊っている者たちが多数いる。
が、辺境伯は人が少ない所を選んでどんどん離れていく。
「……誰もいないな。ここなら話せる」
そう呟いた辺境伯の横顔には、普段とは違う緊張が滲んでいた。
「どういったお話でしょうか?」
いつもとは違う雰囲気に恐る恐る訊ねる。
すると、ビートル辺境伯が口を開く。
「マルス、将来の夢を聞かせてくれ」
唐突な問いかけに、俺は一瞬言葉を探した。
「夢……? ですか……クラリスたちと幸せに暮らすこと……ですかね。あと、ご存じかと思いますが、リムルガルドを治めたいことくらいかと」
これはもう、極秘会談のときに事実上伝えているようなものだ。
今さら隠す必要もない――そう判断して、口にした。
すると、俺の言葉を聞いたビートル辺境伯が真っすぐ俺を見て言葉を返してくる。
「マルス、それは私の夢とも利害が一致しているはずだ。組んではくれないか?」
「……ビートル辺境伯の夢?」
あまりにも唐突な言葉に聞き直す。
けれど、辺境伯の顔には一切の冗談めいた色がなかった。
「ああ。これはな、お前がグランザムからアルメリアに戻ったとき、すでにブライアント辺境伯にも伝えてある。それから、この前、メサリウス伯爵にもな」
ビートル辺境伯の目に真剣さが宿る。
「私の夢……野望は、三国の統一――」
一拍置いて、出た言葉が衝撃的だった。
「そして、ザルカム王国の――滅亡だ」










