第521話 命令
校長室を後にして、俺が次に向かったのはコスプレ喫茶。会場はまさに超満員。男たちの期待と興奮が渦巻く、異様な熱気に包まれていた。
聖水売り場にはクラリス、ミーシャ、アリスが並び立ち、それぞれがメイド衣装に身を包んで接客中。彼女たちに釘付けになった男子たちが、行列を作ってはにやけた顔で見つめている。
そんな男たちの間を縫ってバックヤードへと進むと、カレンがひとり、ベッドで眠るエリーの傍らに座っていた。その表情には不安が滲んでいる。
「カレン、エリーの様子はどうだ?」
俺の声に、カレンがこちらを振り向く。その顔がふっと柔らぎ、少しだけ微笑んだ。
「ええ、ようやく落ち着いたみたい。でも……マルス、お願い。何が起きてるのか教えて?」
もちろん、話すつもりではいた。ただ、エリーの眠る横でラースの名を出すのは、どうしても気が引ける。そこで俺は土魔法でパーティションを作り、音を遮断する。
そして、事の核心を語る。
「ラース? 暗黒魔法? 未来視……? なにそれ……それって……そんな相手に勝てるわけないじゃない……」
カレンの声が震え、唇がかすかに色を失う。
突然こんな話を聞かされて、動揺しない方がおかしい。
あのリーガン公爵ですら顔色を変えるほどの内容なのだ。カレンが狼狽するのも当然だった。
だからといって伝えずに済ますわけにはいかない。
それはカレンだけじゃない。ミーシャもアリスも……そして関係する者たちすべてに必要なことだ。
相手に未来を視る能力がいる者がいる以上、ラースやその能力に関する話題は、俺以外の誰にも明かさぬよう、しっかりと口止めをした。
そのうえで、ミーシャ、アリス、姫、ミネルバ、アイク、そして眼鏡っ子の先輩にも、同じ情報を共有する。
闘技場で戦っているバロンたちにも共有しようと思っていたのだが、それは時間が許してくれなかった。
もう16時――闘技場での戦いまで残すところ後1時間となってしまったのだ。
未だに眠るエリーをおんぶし、一度黎明部屋に戻る。
ラースの狙いは分からないが、間違いなくその中にエリーは入っているはずだ。
カレン、ミーシャ、アリス、そして姫とミネルバ。
さらに眼鏡っ子の先輩とエリーも託し、彼女たちを守るよう索敵に優れたハチマルを部屋に招き入れる。
そして、俺はクラリスと共に闘技場へと向かった。
本当はクラリスにも部屋に残っていてほしかった。だが、いつも俺の隣にいる彼女が不在となれば、かえって怪しまれる。
それにクラリスが「ヨハンがいるのであれば私も絶対一緒に行く」と言ってきかなかったことも理由の一つだ。
闘技場の選手控室に入った瞬間、怒号が聞こえた。
「ヨハンは俺たちの獲物だ! ここはブラッドに任せる!」
「俺があいつをズタズタに切り裂いてやる!」
叫んだのはセレアンス公爵。その命を受け、ブラッドが両拳を打ち合わせて気合を入れる。
だが、相手はヨハンだ。
――あいつには、勝てない。
ブラッドも強い。だが、ヨハンはその遥か上を行く。
しかも、ヨハンにとって獣人はただの獣にすぎない。情けや手加減なんて期待できない。
仮にしたとしても、それは見せしめのため。嘲るように、じっくりと――。
ブラッドは仲間であり、親友――
俺は、そんな無残なブラッドの姿を見たくなかった。
「……セレアンス公爵、少し冷静になってください」
静かな一言が、その場の熱を冷ます。
声の主はリーガン公爵。そして公爵は俺に視線を向ける。
「マルス、率直に答えてください。ヨハンの実力、どれほどのものですか?」
すでにリーガン公爵には、ヨハンの強さを伝えてある。
再び尋ねたのは、周囲に理解させるためだ。
俺は一度深く息を吸い、皆の視線を受け止めた。
「……正直、僕が持てる力すべてを出し切っても、勝てるか分かりません。今まで出会った中であいつが最強です」
その一言に、空気が凍りついた。
セレアンス公爵、ブラッド、他の面々も固まったように俺を見つめる。
その中で、アイクが代表して口を開く。
「マルスと同等の力を持つということか……?」
俺は静かに頷いた。
「はい。あいつの力は、底が見えません。一度、ヨハンの技を目にしました。あいつの武器は――巨大な鎌。その一振りは空間を裂き、離れた場所にいる敵の首を容赦なく刈る……」
息を呑む音が重なる。
「誰が、あの技を回避できるでしょうか? 未来が視えでもしない限り――不可能です」
間違いなく、ヨハンよりもラースの方が強い。
ディクソン辺境伯もまた、ヨハンを上回る実力者だった。
だが、それでもこう言うしかなかった。
セレアンス公爵、ブラッド、そしてその背後で静かに燃える闘志を隠しきれないビャッコ……彼らを抑えるには、この言葉しかなかった。
場を覆う静寂を切り裂いたのはリーガン公爵だった。
「――私がこの場を仕切ります」
公爵の声が響いた瞬間、空気が明らかに変わる。
「マルス。あなたがヨハンと戦いなさい。そして、必ず生きて戻ってきなさい。勝敗は……二の次です。それでも、あなたならきっとできる。違いますか?」
「何を言っている!!」
セレアンス公爵の怒号が飛ぶ。
「八つ裂きにしろと言っているんだ! ヨハンを倒すまで、死ぬことは許さん!」
その目は血走り、声には激情が滲んでいた。
普段は冷静で、策略にも長けた人物。
だが、獣人が関わるとなると理性が吹き飛ぶのだ。
その気持ちは、痛いほど分かる。
俺だってクラリスたちに、何かが起きたら、同じように怒り狂い、誰であろうと叩き潰す。
それくらいの気概は持っている。
だからこそ、俺とリーガン公爵が選ぼうとしている道は、セレアンス公爵の想いを裏切る。
それが最善と信じて。
すでにこのことは、クラリスをはじめとする婚約者たちに伝えてある。
彼女たちは、何も言わず、ただ俺の決断を信じて頷いてくれた。
そして、校長室で話したこと。
リーガン公爵が俺に命じたのは、勝利ではなかった。
「負けろ」という命令。
だが、それはただの敗北ではない。
負けたと見せかけて、相手にある種の印象を植えつける――それが、俺の真の目的だ。
つまり、「マルスは大したことない」「脅威ではない」と錯覚させること。
未来が視れなくても大した存在ではないと思わせること。
そのためには、ある程度の実力を見せながらも、意図的に取りこぼす必要がある。
力を見せすぎればラースに警戒される。だが、手を抜きすぎても気づかれる。
その絶妙なバランスが問われる。
これは戦いではない。
――演技だ。
ヨハンも俺の演技に付き合ってくれるに違いない。
何しろラースを倒すには、俺の特異な体質が必要と信じている。
あいつには十分力を示している。今更疑われることはないだろう。
さらに、この戦いにはもう一つの目的がある。
ヨハンとの接触。
あいつの口から、ラースたちの動向を引き出す。
何を企んでいるのか、どこまで視えているのか。
これは一つの舞台。
その上で、俺は二重の仮面をかぶる――敗者の仮面と、探る者の仮面を。










