第520話 校長室にて
ミリオルド公爵の挑発に乗せられた形とはいえ、リーガン公爵は冷静だった。
「今すぐ闘技場で決着を――と言いたいところですが、あいにく超満員の観客を退かすのは容易ではありません。強制すれば混乱を招きます。したがって、勝負はリスター祭の終了後とさせていただきます」
その言葉に、ミリオルド公爵も静かに頷く。想定内ということだろう。
「決戦は本日17時から。それまでの間、ミリオルド公爵ご一行には、控えの部屋を用意いたします。そちらでごゆっくりお待ちください」
「いや、我々はこのリスター祭を楽し――」
「楽しむのはヨハンが勝ち、我々との信頼が築かれたあとでお願いします。我々は、あなた方を信用しておりませんので」
言葉を選ばず、きっぱりと宣言するリーガン公爵。その瞳は一片の曇りもない。
その言葉に特に反論することもなく、無言のまま理解を示す。
――おそらくこの展開すらも、ラースは予見していたのだろう。
ミリオルド公爵を通じ、ラースは未来視でこの光景をすでに見ていたに違いない。
その一団を、リーガン騎士団とフレスバルド騎士団が挟み込むようにして囲み、リスター祭で使用していない建物へと無言で誘導していく。
移動の最中、ミリオルド公爵一行の動きには徹底した監視体制が敷かれた。
一人につき四人の騎士がぴたりと張り付き、さらにその外周をぐるりと囲むようにして別の騎士団員たちが隊列を組む。
その様はもはや警戒の域を超えていた。明らかな敵意の誇示――公然たる包囲網だ。
そんな物々しい光景を横目に、リーガン公爵は静かに校長室へと向かう。
足早に入室すると同時に、すでに集まっていた騎士団の幹部や教員たちに対して、次々と明確かつ迅速な指示を飛ばしていく。
最初に命じたのは、ミリオルド公爵の主君であるザルカム王への正式な招聘。
次に、情勢をより有利に進めるため、バルクス国王も招聘する。
近くにはミックや【流刃】もいる可能性もあるから、彼らにも声をかけるようにと指示を出す。
さらに、ビラキシル侯爵への協力要請も怠らない。
こちらは即座に快諾が得られた。二つ返事での了承――ビラキシル侯爵としてもリーガン公爵に恩を売るいい機会と思ってのことだろう。
デアドア神聖王国の教皇に対しても同様の働きかけがなされ、これもまた順調に進んだ。
一連の指示が行き渡り、場が落ち着きを見せたところで、俺は静かに校長室の扉をノックする。
リーガン公爵の許可を得ると、中へと足を踏み入れた。
ちなみにクラリスはすでにコスプレ喫茶に送り届け、エリーの様子を見ながら聖水を売ってもらっている。
クラリスも一緒に来たがってはいたが、エリーのことも心配なようで俺の要望に応えてくれた。
「失礼します。リーガン公爵、少しお時間をいただけますか?」
扉の前で姿勢を正し、俺は丁寧に頭を下げる。
リーガン公爵は机の上の羊皮紙に手を走らせながらも、すぐに顔を上げた。
「私もマルスに聞きたいことがあります。まずはこちらから質問させていただきます」
「もちろんです」
「ヨハンの実力、マルスはどの程度だと見ていますか?」
羊皮紙にさらさらと文字を走らせたまま、リーガン公爵の視線が真っすぐに俺を射抜く。
「……正直なところ、ヨハンの力は計りかねます。ですが、僕と同等の力を有していると考えてもらって構いません」
その答えに、リーガン公爵の筆が止まる。目を大きく見開き、驚愕を隠せない様子だ。
「スザクやビャッコよりも強い――そのあなたと、同等だと……!?」
「はい……かつて学校で共に過ごしていたヨハンとは、もはやまったくの別人と考えた方がよいでしょう」
「……そうなると、獣人代表としてビャッコが出場したところで、勝つのは難しい?」
「……その可能性は高いと思います。もちろん、相性の問題もあるとは思いますが」
リーガン公爵はしばし黙考し、そして決断の色を瞳に宿す。
「――分かりました。では、ヨハンと戦うのはマルス……あなたです」
その言葉の裏に、「負けるわけにはいかない」という強い意思が滲んでいた。
「承知しました……ですが、その前に一つお聞かせください。もし仮に、ビャッコ様が出場して敗北した場合――その後、ミリオルド公爵たちと舞踏会を開く予定でしたか?」
「……ええ、そうするつもりでした」
「場所は?」
「リーガンの街の、どこかの店を貸し切って……と、考えていました。そこで……」
言葉の端が濁る。
おそらく、表向きは親睦でも、その裏には何かしらの企みがあったのだろう。
とすれば、ラースがその未来を視ていた可能性は非常に高い。
「では、もう一つ質問を。もし相手に未来を視る力を持った者がいて、リーガン公爵の行動すべてが読まれているとしたら――どうなさいますか?」
「……未来を視る……?」
一瞬、リーガン公爵の眉が動き、次いでその瞳に警戒の色が浮かぶ。
「なぜ、そんなことを?」
「相手に未来視――未来を視る魔眼を持つ者がいるのは、確実だからです」
「……っ!?」
リーガン公爵が瞳を見開いた。呼吸すら忘れたかのような表情で、俺を見つめる。
「それは……あの魔王ラースの魔眼と同じ、未来視ということですか?」
「はい。断言できます」
それは俺の推測ではない。
ラースの未来視については、ヨハンだけでなく、亜神様からも直接伝えられている。
――疑う余地など、まったくない。
そしてもう一つの情報も共有する。
「鑑定したわけではないのですが、その者は暗黒魔法の使い手です」
リーガン公爵がバッと席を立ち、驚愕に瞳を見開く。
「暗黒魔法!? その者は悪魔族なのですか!?」
「いえ、人族だと思われます」
「人族が暗黒魔法を……?」
その表情には、すぐさま冷静さが戻っていた。流石は一国の要――その胆力は本物だ。
「マルス、あなたのことを疑っているわけではありません。ただ……未来視に暗黒魔法と、あまりに現実離れした話ばかりです。信じるに足る根拠が、何かあるのですか?」
「……ヨハンです」
「ヨハン!? ヨハンは相手方で我々と敵対しているのでは!?」
「立場的にはそうですが、ヨハンはそいつを憎んでおります。そのために僕に協力を要請してきました。その者を一緒に倒そうと」
未だに信じられないと言った表情を見せるリーガン公爵。
ここで『その者』が魔王ラース――英雄ラースの転生者と伝えようかとも思ったがやめておいた。
未来視と暗黒魔法が使える相手がいるということを知ってもらえばいいからな。
これ以上の情報を教えても不信感を抱かれるだけかもしれないというのもある。
「リーガン公爵は僕が特異体質で魅了眼をはじめとした魔眼が効かないことはご存じですよね?」
「……ええ、マルスには未来視も効かないと?」
「はい。僕と会話したり、そばにいる間は――未来視に映らない、あるいは異なる未来が視えてしまうようです。だからこそヨハンは僕と手を組もうと言ってきたのです」
リーガン公爵は黙して思考を巡らせた。ほんの数秒だったが、その瞳に走る光は、すでに次の手を見出していた。
「分かりました。にわかに信じられませんが、その可能性を考慮します。具体的にはヨハンのことや未来視、暗黒魔法のことはマルスと2人きりのときにしか口にしないよう心がけます。そして、それを踏まえて考えがあります」
その言葉と共に、綺麗な顔が確固たる決意に染まる。
「ヨハンとの戦い――あえて、負けようかと」
リーガン公爵が辿り着いた結論は俺と同じだった。
「ミリオルド公爵を私の屋敷に迎え入れようと思います」










