第519話 対峙
「パパ……だと?」
エリーが意識を失った刹那、馬車から一人の男が姿を現した。
他の執事たちと同様に、ミリオルド公爵と見分けがつかない装い。
しかし、その圧倒的なオーラは明らかに別格だった。
俺が今まで相対してきたどの敵、どの魔物よりも――悪魔族だったディクソン辺境伯すらも遥かに凌駕する、圧倒的な威圧感。
「リーガン公爵、エリーが意識を失いました。今すぐ安全な場所へ運びます。すぐに戻るので、どうかお許しください」
俺の直感が、天眼が警鐘を鳴らす。
エリーにあの男のプレッシャーをさらし続けてはいけない。
リーガン公爵の返答を待つことなく、俺はエリーをお姫様抱っこし、クラリスと共にその場を離れた。
背後からあの男の視線を感じるが、振り向く気はさらさらない。
「ねぇ? あの人って……?」
走りながら、クラリスが小さく問いかける。
エリーの顔をうかがう彼女の表情は、いつになく真剣だった。
「間違いない。俺の眼が警鐘を鳴らしている。あいつは……」
だが、エリーの前でその名を口にすることが許されない気がした。
クラリスがあえて名前を呼ばなかったのも、同じ思いゆえだろう。
コスプレ喫茶の超満員の列をかき分け、店内へと飛び込む。
バックヤードへ向かう俺たちの後を、カレンとミーシャが心配そうについてくる。
一方、アリスは持ち場を離れなかった。
心配なのは痛いほど伝わってくるが、彼女は一人で必死に笑顔を作り、客に対応している。
それはアイクや眼鏡っ子先輩、姫、リーナも同じだった。
それぞれの役割を全うしつつも、視線の端々に俺たちを気にかける色が滲む。
バックヤードに入ると、俺はすぐに土魔法でベッドを作り、エリーを寝かせる。
「マルス!? エリーはどうしたの!?」
「エリリン!?」
事情を知らないカレンとミーシャがベッドを囲み、心配そうに声を上げる。
俺が説明するよりも早く、クラリスが的確に指示を出した。
「事情は後で話すわ。カレン、ミーシャ、タオルを持ってきて。マルスは土魔法で桶を作ってお湯を張って。あと……申し訳ないけど、エリーを脱がせるから、マルスはアリスのところに行ってあげて」
指示を出しながら、すでにクラリスはエリーのブラウスのボタンを外していた。
俺は言われた通り、土魔法で桶を作り、お湯を張ると、すぐにバックヤードを出た。
聖水売り場に目を向けると、アリスは必死に笑顔を作っていた。
客の前で極力婚約者に話しかけたり、絡むなとは言われているが、アリスの不安を取り除いてやることが優先。
俺は迷わず聖水売り場へ歩み寄ると、すれ違いざまに彼女の手をそっと握る。
アリスが驚いたように目を見開いたが、何も言わずに俺の手を握り返してくる。
その隙にラブエールを発動。
抱き合ったり、密着してからの方がMPの伝導率はいいが、さすがにこの場でやったら暴動が起きる。
アリスのMPが全快したのを確認すると、名残惜しくもその手を放し、店の外へ。
すると、バックヤードから出てきたクラリスも俺の後に続く。
「エリーの近くにいなくてもいいのか?」
「私も残ろうとしたのだけど、去年も同じようなことがあったから任せてくれって。マルスを頼むってカレンとミーシャに背中を押されたの」
なるほど。
二人がそう言ってくれるのであれば安心だ。
急いで正門に戻ると、セレアンス公爵の怒号が響く。
「黒目黒髪でその制服! 貴様が我らの子を攫っていたのか!」
これだけセレアンス公爵の殺気を真正面から受けながらも、ヨハンは微動だにせず、涼し気な笑みを浮かべていた。
さらにリーガン公爵も続く。
「なぜあなたが由緒正しきリスター帝国学校の制服を着ているのですか!?」
公爵の顔には青筋が浮んでいた。
すると、ヨハンは薄く笑みを浮かべたまま、ゆったりと口を開く。
「申し訳ございません。僕は弱くて口だけの獣と喋ってあげるほど、人ができてないので。ただ、リーガン公爵の質問になら答えられますよ? 去年もここでお会いしたじゃないですか?」
こいつ、煽っているのか?
この緊迫した場で、セレアンス公爵をあえて刺激するような物言い。
自殺願望があるのか? それとも、ここにいる全員を相手取っても勝てるという自信の表れなのか――
「なっ!? 貴様……愚弄しおって!」
セレアンス公爵が怒りを堪えきれず、ヨハンに飛びかかろうとする。
しかし、その瞬間、リーガン公爵とフレスバルド公爵が素早く動き、なんとか彼を押しとどめた。
その様子を静かに見ていたミリオルド公爵が、ゆっくりと一歩前に出る。
「うちの息子が申し訳ない。ヨハン? たとえ事実でも口に出してはならないことがある。謝りなさい」
仮面の奥から発せられるその声は去年と違う。
それでも共通するのは、生気のない、覇気すら感じさせない声音。
まるで、ただの人形が言葉を発しているかのようだった。
ミリオルド公爵の言葉にさらにブチ切れるセレアンス公爵だったが、リーガン公爵の魅了眼によって動きを封じられる。
直後、リーガン公爵がかすれた声を漏らす。
「ヨハン? あなた――本当にヨハンなのですか?」
「はい、ミリオルド公爵家ヨハン・グランツです」
邪悪な笑みを浮かべるヨハン。
その表情を見た瞬間、リーガン公爵が僅かに後ずさる。
そんなリーガン公爵に、まるで命令されたかのようにミリオルド公爵が口を開く。
「リスター祭では、素晴らしい催しが数多くあると聞いている。我々も楽しんでよろしいか?」
リーガン公爵は息を呑みつつも、予め用意していた答えを返す。
「……ええ。ただ一つ、コスプレ喫茶だけはご遠慮願います。各地から楽しみに訪れた客でいっぱいですので」
彼らの目的は何なのか、皆目見当がつかない。
すると、ミリオルド公爵はまるで感情がこもっていない、空虚な声で返す。
「それは残念だ。この世の美女と美少女を集めたと小耳に挟んだものだから是非見たかったのだが……では、こういうのはどうだろう? もう一つの目玉に闘技場があると聞く。もし、私たちが勝ったら願いを叶えてくれるというのはどうだろうか?」
しかし、リーガン公爵も食い下がる。
「そんな不気味な仮面をつけた者たちを見たら生徒たちも委縮してしまいます。どうしてもというのであればその仮面を……」
「いや、我々はコスプレ喫茶に行きたいわけではない。あなた方と親交を深めたいだけだ。もし、我々が勝ったら――舞踏会でもどうですかな?」
舞踏会?
予想外の提案に、リーガン公爵が狼狽える。
ここまで話の主導権を握られている公爵を見るのは初めてだ。
いや、もしこれが奴の未来視によるものならば、当然の結果なのかもしれない。
リーガン公爵の未来を視ることができずとも、事前に公爵と対話する人物を決めておけば、その者の未来を視ることで、公爵の反応まで予測することは可能だろう。
初めてヨハンと出会ったとき、リルムガルドの城下町前で、彼は言った。
――ここに俺がいるはずがない、と。
つまり、奴はヨハンの未来を視ることで、ヨハンがどこで誰と遭遇するのかも把握していたのだ。
ならば、会話の内容までも事前に知ることができてもおかしくない。
奴の未来視からは逃れられない。
それはつまり、この状況はすべて予定調和であり、奴の思い描いた未来の通りに進んでいるということ。
ミリオルド公爵は動揺するリーガン公爵を視ながら提案を続ける。
「我々はヨハンを代表者として選出する。そちらは誰が出てくれても構わない」
「私たちが勝った場合、どうような報酬を得られるのですか?」
「それは、リーガン公爵が決めてもらって構わない」
その言葉の裏には、ヨハンが負けるはずがないという自信に満ちていた。
「その条件、飲みましょう」
その言葉に一瞬、他の執事と並ぶ奴の仮面の奥から笑みが零れるのが視えた。
天眼が――亜神様が警鐘乱打してくれる。
間違いない……あいつが――ラースだ!










