第450話 クラリス対女淫魔
なんだろう……このいい匂いは……。
突然甘い匂いが鼻にまとわりつき、頭が重くなる。
匂いの元を辿ると、1人の娘が俺においでおいでと森の方へ手招きする姿が。
娘の出で立ちは特徴的で、豊かな膨らみを隠すには小さすぎる黒いボンテージを身に纏い、背中からはコスプレでもしているのかのような黒い羽。さらにはその魅惑的なお尻から伸びる黒い尻尾の先端は、ピンク色でハート形を描いている。
何より惹かれたのはその容姿。銀髪の艶やかな髪を垂らし、肌は透き通るような白さ。俺を見るその目はオーシャンブルーのように澄んでいた。
か、かわいい……それにもっとあの娘から漂ってくる匂いを嗅ぎたい。
頭がもうあの娘でいっぱいになっていた俺は、いつの間にか歩き出していた。銀髪の娘は俺が歩き始めると、踵を返し、森へ逃げていく。
そんな恥ずかしがらなくてもいいのに。でも逃げられると追いたくなる。走ろうとすると、いつもよりも体が重く、見えない何かにしがみつかれているようで、思うように走れない。このままではあの娘を見失ってしまう。
懸命に銀髪の娘を追いかけようとすると、今度は幻聴が聞こえてくる。
「……ス……ルス……」
この耳に心地よい声はどこかで……その声の主が誰なのかを考えようとした時だった。
目の前に先ほど追いかけていた銀髪の娘……いや、それとは比べものにならないほどの美女が視界一杯に広がったのは。
「……ルス! マルス!」
美女が必死に誰かを呼んでいる。マルス……? どこかで聞いたような名前だが……誰だろう……と、次の瞬間、先程の匂いよりも遥かに芳しい匂いと共に、懐かしい感触が唇に触れる。すると今まで重かった頭が軽くなり、クリアになった。
「クラリス!?」
俺の声を確認したクラリスが、俺から視線を切らず叫ぶ。
「ミーシャ! マルスが戻ったわ! お願い!」
「分かった!」
気のせいかもしれないが、返事をしたミーシャの声はいつもと違った。
何を? と思い、周囲を見渡そうとすると、クラリスが俺の後頭部に手を回し、自身の胸に俺の顔を引き寄せる。
「ごめん、マルス! 少しの間このまま我慢して!」
我慢も何もここは天国。ずっとこのままでいたいくらいだ。
だがどうして? そう思った矢先、ミーシャの水魔法を唱える声が聞こえたと思ったら、女の断末魔が響き渡る。
「クラリス! 倒したよ! 匂いもなくなった!」
ミーシャのいつもの可愛らしい声が響く、その声を聞いたクラリスが俺を天国から引き離す。クラリスの目の色は濡れていた。
「ごめんなさい……私の……せいで……」
堪えきれなくなったクラリスの目から涙が決壊する。
「どうしてクラリスが謝る?」
白い頬に伝わる涙を拭いながら問うと、
「……私が……杖を……離せって……だから女淫魔に……」
体を震わせながら答えるクラリス。やはり俺は女淫魔に誘惑されていたのか。先ほどの断末魔は女淫魔のものか。
「乳繰り合うのは後にせい! 早く加勢にくるのじゃ!」
声のする方を振り返ると、驚いたのは姫との距離。隣で戦っていたはずなのに数十メートルは離れていた。女淫魔に誘われ、森の方まで走ってしまったのか……それに襲ってくるアーリマンの数も先ほどより多い。
エリーはもうMP切れを起こしているのか、アリスと並んで戦っており、ミーシャと姫でなんとか上空のアーリマンたちを落としていたが押されている。
カレンもファイアボールを上空に飛ばし、それをアーリマンに相殺させることによって、アーリマンに攻撃の機会を失わせていたが、多勢に無勢であることは明白だった。
「クラリス、俺がおかしくなったらまた止めてくれるか?」
俺の問いに溢れる涙を拭いながら頷くクラリス。
「よし! じゃあ頼むぞ!」
クラリスの背中に右腕を、少し腰を落としてクラリスの膝裏を左腕で抱えて立ち上がる。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「え? ちょっと? マルス?」
心の準備ができていなかったクラリスは慌てて左腕を俺の後頭部に回し、右手でスカートを抑える。
そんなクラリスを抱え、皆の所に走りながら、ウィンドカッターでアーリマンを落とす。
「俺がクラリスの代わりにアーリマンを落とす! もちろんアーリマンの風魔法も俺が相殺するから皆は当初の作戦通りやってくれ!」
俺の声に反応したエリーとミーシャがすぐに俺の所に駆けよってくるのを見て、一旦クラリスを下ろす。
「「マルス!」」
我先にと飛び込んでくる2人にラブエールを唱え、謝罪をする。
「心配かけて悪かった。後でしっかりと償うから今はアーリマンに集中してくれ!」
2人は頷き、再度持ち場へ戻ると、またもクラリスをお姫様抱っこし、アーリマンを落とす。
言っておくがこれは俺が女淫魔に誘惑されないためだからな。女淫魔を利用してクラリスと触れていたいからという気持ちは、ほんの99%しかないから誤解がないようにな。
俺が戦線に復帰して10分程度で目に見えるアーリマンをすべて倒しきり、皆でカストロ公爵の下に集まる。
「一時はどうなるかと思ったけど、何とかなったわね」
戦いを見ていたカストロ公爵が安堵のため息をつく。
「申し訳ございませんでした。僕のせいで……」
頭を下げると、
「そうね……でもまさか、女淫魔の誘惑がああいった形で解除できるなんて知らなかったわ」
カストロ公爵が驚きの表情を作る。
「はい。僕もまさか女淫魔があそこまで可愛いとは思いもしませんでした」
「やっぱりマルス君も女淫魔のことを知らないようね」
俺も? 疑問に思う俺にカストロ公爵が女淫魔の特性を改めて教えてくれた。
「女淫魔はね。匂いで誘惑するのよ。これが男には天にも昇るようないい香りらしいのだけれども、女の私たちからすると、鼻を刺すような酸っぱい匂いで不快でしかないのよ」
もしかしたらミーシャの声がいつもと違ったように聞こえたのは、鼻をつまんでいたからか?
「そしてその匂いを嗅いだ男は、女淫魔を理想の人と捉えてしまうらしいの。だからマルス君が見た女淫魔は今まで見た誰よりも美しかったはずよ」
ん? そんなことはなかったな……確かに女淫魔は可愛かったが、クラリスには遠く及ばない。
「え? 私の顔に何かついてる?」
カストロ公爵の話を聞いていた俺が、クラリスの顔をまじまじと見ると、クラリスが身だしなみを整えようとする。
「あ、いや……女淫魔よりも圧倒的にクラリスの方が可愛かったなって……」
俺の言葉に目を逸らし、真っ赤になるクラリス。すると姫が胸を張る。
「当然じゃ! 妾がいくらクラリスをイメージしても変化できなかったのじゃぞ!? 女淫魔ごときがクラリスをマネできるわけなかろう!」
まぁ女淫魔の場合は変化ではなく、あくまでも俺のイメージだ。俺が想像するクラリスよりも実物のクラリスの方が可愛いということなのだろうが、姫が言わんとしていることは分かる。
「もしも僕が女淫魔に誘惑されたら、女性陣が女淫魔を倒すというのはダメなんですか? 女淫魔が死ねば誘惑も解けるかなと・……」
疑問に思ったことを口にすると、カストロ公爵が戸惑いながらも答える。
「うーん……マルス君の場合は当てはまらないのかもしれないけど、女淫魔に誘惑されたまま女淫魔が死ぬと、後追い自殺する可能性があるらしいの……クラリスもマルスが誘惑されたとき女淫魔を射貫こうと思ったらしいのだけど、私が止めたのよ。だから誘惑されてしまった場合、誘惑された者の目に触れないように倒すというのが定石ね」
あー、理想の人が死ぬ光景を見たら耐えられないってことか。たしかにそうかもしれないが、女淫魔をクラリスとは認識しないからなぁ。あくまでも女淫魔は可愛い銀髪の娘止まりだ。
「あと覚悟して欲しいのだけれども、幻獣の森の中はもっと女淫魔の匂いで充満しているわ。そしてそこには幻妖花も。マルス君? 本当に幻獣の森に入って大丈夫なの?」
カストロ公爵と共に双子にも不安の色が見える。
恐らく最初から天眼でしっかりと目を凝らしていれば、女淫魔の姿を誤認識することはないと思うが、結局匂いがなぁ……森の中でずっとクラリスをお姫様抱っこしているわけにもいかないし、やはりここは賢者様の番か。
「はい。僕には切り札がありますから。ちなみになのですが、もしも僕が女淫魔に誘惑されたままだった場合どうなっていたのでしょうか?」
「……子を宿すまで……と言えば分かるかしら?」
カストロ公爵の答えに、エリーが刺さる一言を呟く。
「……6人目……女淫魔……嫌だ……」
それに姫とミーシャが反応する。
「何を言うておる! 6人目の席は妾が予約済みじゃ!」
「私も10人目が女淫魔は勘弁してほしいな」
姫の好意は分かっていたが、なぜ10人目なのだ? ミーシャよ。
「あるわけないじゃない! もしもまた女淫魔がマルスを誘惑するのであれば、私が何度でもマルスを正気に戻すわ!」
クラリスが可愛く拳を握る。できれば俺だってそうして欲しい。だがそんなことで俺とクラリスが戦闘からフェードアウトしていたらいつか他の者たちが痛い目にあう。
「ありがとう。でも幻獣の森の中で毎回毎回そんなことをしている余裕はないと思うんだ。だから俺は1人で賢者の杖を握るよ」
そう言って寝かしてある賢者様を手に取り戻ると、【黎明】女性陣はもう俺に近づかなくなった。










