エリザベスの闇
むぐ。うくうく。
さてあれから今も、私は度々イリザの授乳の刑に処されているワケで。
「さーあ、たんとお飲みになってくださいね、エルお嬢様」
うっとりとした顔でイリザが私をのぞき込む。
授乳は私にとって最悪の食事の時間だと思っていたが、こうしてイリザが嬉しそうにしているのは決して悪くない。むしろ、母の愛のようなものを彼女からは感じることが出来る。
あれから余る時間を思考に耽る私が確認できたのは、前世の記憶は断片的に失われているということ。
日本で生まれ、ごく一般的な家庭で愛されて育ち、結果的に28の若さで孤独死をしてしまった私は親不孝としか言いようがないが、自分の前世の記憶に関してはそうおかしな点はないと思う。
問題はこの世界と酷似しているゲームの記憶。
あんなに傾倒していた「天パラ」の記憶に関しては、不安定なところが多い。
おおまかな設定や時代背景は中世ヨーロッパ的だが、大体把握している。だが、攻略対象の名前は記憶から欠如していた。
主人公エアリスが、魔術学院に入学するところからゲームは始まり、出会う攻略対象は全部で六人。
パラヴィエル王国第一王子、宰相の息子、騎士団長の息子がメインストーリー。
そして他に三人。これも曖昧で、霞がかったように思い出せない。
そもそも、転生して前世の記憶があることがイレギュラーなのであり、部分的な記憶の欠如は、そうおかしなことでもないのかもしれないが。
今世での私、エリザベスに関しては、主人公に出会う16歳以前の過去は本編であまり語られず、情報が少なすぎる。
「う、うう、あー」
私が小さな手でイリザの乳房をたたく。もうおなかいっぱい、の合図だ。イリザはふっくらとした丸顔をくしゃくしゃにして、茶色の目を細めてほほ笑む。乳母であるイリザは二十台後半くらいだろうか。恰幅もよく、おっかさん、といった感じだ。
「お嬢様、こんなに可愛らしいお嬢様を放っとくなんて、旦那様も罪ですわね」
イリザが私を縦抱きに抱きしめて、背中をとんとんする。げぇぇぇっぷ。ああ、もうやだこれ。
そして膝の上に座らせ、再び私をじっと見つめた。
前世での母親もこうしてくれたのだろうか。28で孤独死してしまうなんて。胸がぎゅっと痛む。ごめんね、お母さん。
「お嬢様、エルお嬢様。大丈夫。イリザはお嬢様の味方ですわ」
私のそんな感情の機微に気づいたのか、イリザの茶色の瞳が優しげに揺れて、潤む。
「ぅあ、」
その瞬間。頭の中に映像が凄い勢いで湧きだした。
『お嬢様!!お逃げくださ―――――』
黒ずくめの武器を持った男たち。イリザが私の前で両手を広げて叫ぶ。男の一人が袈裟懸けに剣を振り下ろすと鈍い音がして、イリザの体は崩れ落ちた。
『イリザ!イリザああああああッ』
私の声だ。次女に伸ばした右腕を捕まえられ、引き摺られる。その腕に噛み付けば殴られた。胸倉を捕まれ体ごと持ち上げられると、苦しくて声も出なくなった。その向こうに父親の姿が見えた。
『おと、う、さま…!』
呼ぶ声は掠れて、しかし父と目が合った。暴行される娘の姿を見る、黒髪を結い上げた男の目は酷く冷たかった。
男の唇が動く。声は聞こえないがはっきりと何を言っているのかは分かった。
その後ろで、火が放たれて燃え上がる。
――――ッああああああああアッ!
突然激情に任せて泣き出した赤子に、イリザは慌てて立ち上がり体をゆすった。
「あらあらあら、どうされましたエル様、大変、おむつかしら」
ゆらゆらと赤子を優しく揺らして、ベッドに寝かせる。
「うーん、違うみたい。お腹いっぱいで眠たくなったの?ああ、エル様、私の大切なお方、どうぞ泣かないで」
再び抱き上げると、ゆりかごのようにゆらゆらと、優しい乳母が抱きしめてくれる。
イリザ。優しいお母さんみたいな貴女の最期を思い出したの。貴女は私を庇って殺された。
私の実の父親は、私を見捨てたというのに。
否、思い出したのはゲームの記憶だ。まざまざと自分のことのように感じるが、実際にアレはゲームの本編で主人公のエアリスがある一定以上エリザベスとの好感度を上げると語られる、唯一の過去話だ。
エリザベスの六歳の誕生日。ルガリオン家は夜中に夜襲を受け、エリザベスは賊に連れ去られる。屋敷には火が放たれるが半焼で済み、ルガリオン家当主の父親も無事だった。
半月後。エリザベスは帰ってくる。心を凍り付かせ、全てへの憎悪を宿らせて。