プロローグ①
私の世界は時々色を失う。物も、人も、背景も、その瞬間はモノクロの映画みたい。まるでこの世界は『私』のものではないのだぞと、釘を刺されているみたいだ。全てが輝いて見えていたあの頃にはもう戻れないし、それなら振り返ることに意味はない。ついこの前一周忌も終わり、一年遅れたけれど四月からは大学にも通う。私には悲観したり悔やんでいる暇はないのだ。
◆
私には、かつて兄がいた。
兄の忍はいつでも優しくて、十も歳の離れた私がまとわりついても邪見にせず、よく一緒に遊んでくれた。記憶の中の兄はいつでも笑っていて、私は兄が大好きだった。
そんな兄は、私が八歳の時突然いなくなってしまった。理由はわからない。何かの事件に巻き込まれてしまったのか、それとも自分から出ていったのか。ある日いつものように出かけて、そのまま帰ってこなかった。
有名な医学部に入学予定だった兄は当然両親にとっても自慢の息子だったので、特に母の憔悴ぶりがすごかった。兄を探しに徘徊しては連れ戻され、というのを繰り返し、ついには私を『忍』と呼ぶようになった。もとから私にあまり興味が無かった母の中では、行方不明になったのは私、ということになったようだ。
それから私は『忍』になった。
髪型も、服装も、口調も、兄のものを。お望みの兄像から少しでもずれると「忍はそんなことしない」「忍はそんなこと言わない」と、とても優しく、咎めるように叱られる。父は基本的に静かに狂った母の言いなりで、こっそりと謝るだけで止めてくれることはなかった。
とはいえ性別上女だったので、完全な兄代わりにはもちろんなれなかった。身体はそれなりに女性らしく成長していくし、年齢も上がれば家の外のことまでは管理できない。母の前でさえ『忍』として過ごしていれば、家は平穏だった。
『忍』を演じて十年、大学受験を控えた高三の冬に、両親が揃って交通事故で他界した。
……正直なところ、かなりほっとした。当時私は兄が失踪したのと同じ十八歳。葬式をあげ、折々の法要を行い、そうしてやっと一年が経った。
兄と同じ医学部を受験しなくてすんだし、義理として一年は、形だけでも冥福を祈った。もうこれで十分だろう。
◇
やっと自分として生きられる、と意気込んだけれども。果たして私のやりたいことは一体何だろう。頭を捻ってみても、趣味はおろか、好きなものさえも思いつかなかった。
長い間の演技は既に日常になり、染み込んで、私を形成してしまっている。他人とは常に距離を置いていたので、特別に親しい人が居るわけもない。誰かと他愛もないお喋りをしたり、どこかに遊びに出掛けたり、そういった普通のイベントに憧れはするけれど、憧れだけ。物語のように遠い出来事だ。
せめてこれからはなにものにも縛られず、ささやかでも欲しいもの、好きなことをみつけたい。低い目標だけど、それでもいい。『忍』だった『私』は私……狭山伊織としての人生を、少しずつでいいから、取り戻すのだ。
いつものようにリビングに置いてある三つの写真立てに手を合わせてから、私は家を出た。モノクロにちかちかする空を見上げて視線を戻したら────
──そこは、戦場だった。