あちらと、こちら。
怖くはないと思います。
軽く読めるような短編小説です。
私の名前は中野サチヱ、72歳。
10年前に胃ガンを患ってから、各器官への転移による手術や、検査の為の入退院を繰り返し、終わりの見えない治療に明け暮れていた。
当時はまだ黒かった髪も、今はつるりとしていて毛穴すらわからないくらいだ。
何度かウィッグを勧められたが、嫌悪感から手を出せずにいる。
夫とは若い頃に死別してから再婚もせず、子供も居なかった。親戚とも疎遠。
見舞いに来る人などひとりもいない。
所謂、天涯孤独の身の上である。
今日も私は病院の一室で目を覚ます。
朝はいつも、看護師達による検温の巡回で目が覚めるのだ。
「おはようございまーす。気分はどうですか?今日はいい天気ですよー。」
朗らかで明るい声、一番若い、最近入ってきた新米看護師のものだ。
「ううん、おはようねぇ。ほんと、眩しい、いい天気。気分は…今日はいいみたい。」
ベッドを囲うカーテンが開けられただけでかなり眩しく、一瞬目が眩んで両目を閉じた。
寝起きの声でもだもだと返事をしていると、額に翳される体温計で体温を計られる。
一秒足らずでピピッと音がした。
「36.0。お熱はないですねー。お顔洗ったり、なるべく動いてみて下さい。またお昼前に顔見にきますから、何かあったらナースコールお願いしまーす!」
「はーい、はい。」
若い子は、はつらつとしていていい。
何度も頷いて返事をしてから、私は起き上がり、ベッドを降りて棚からタオルを出す。
6人部屋の病室は人がいっぱいで、退院してもすぐ次が来るのだ。
病室の入り口、内側にある洗面台へ向かい、タオルを置いて蛇口をひねった。
ばしゃばしゃ。
季節は夏、空調が効いている病院だけれど、水は少しぬるく感じた。
何度か繰り返し顔を洗っていると、どんっと誰かがぶつかってくる。
これもいつもの事。図々しい患者なんて、割り込んで洗面台を使いたがるのだ。いちいち腹を立てていると疲れるので、流すことを覚えてしまった。
「ふぅー、タオルタオル…。」
私は手を横へ伸ばすが、そこに置いたはずのタオルになかなか触れる事が出来なかった。
「あら?ここに置いたのに…。」
呟くと、指先に柔らかい、けれど使い古したタオルの感触があった。握り込む。
「どうぞ。」
「あ、あら?ありがとう、どうもご親切に…。」
私はタオルで顔の水気を拭い、やっと目を開け、隣に居るであろう人へ顔を向ける。
そこには、すらりとした看護師がひとり。すらりと、というよりは痩せっぽち。背が高いから余計に細さが際立っていた。色が透けるように白い。
ぽつんとした小さな唇も、あまり血色良いとは言えない色をしていた。
「……?見ない顔ねえ、他の病棟の看護師さんかしら?」
「いいえ、何度もお会いしてます。私、影が薄いとよく言われますので…サチヱさんの事は、良く存じてますよ。」
「あらっ、やだそうなの?ごめんなさいね…。私ったら。でもどこで会ったかしら…。」
何だか頭の中がふわふわする。まだ痴呆ではないはずだけれど…。
真っ白い靄がかかって、自分の立っている場所がぐらりと揺らいだ気がした。洗面台の縁を掴んで身を支え、そっと目を閉じる。
「サチヱさん、サチヱさん?大丈夫、大丈夫ですよ。」
ぎゅっと手を握り締められて、私は我に返った。
ほんの数十秒がやけに長く感じられた気がする。
それにしても、この手は何て安心するんだろう…?
そう思った瞬間、パッと目の前がひらけた。
「あ、ああ…今井さん?今井さん…今井さんよね。」
どうして忘れていたのか、そうだ、いつも私の事を気にかけてくれている看護師さんだ。
細い手が優しく私のしわしわの手を包んでくれる。
「そうです、今井です。ベッド行きましょうか?」
「ううん、外に、出たいわあ…。」
「じゃあ一緒にお外の空気、吸いに行きましょうね。」
私たちはどちらともなく手を繋ぐ。
一歩一歩、私たちは屋上への階段を登った。
不思議と息切れはしない。
扉を開く。
初夏の、湿ったような暑さが肌に触れると、まだまだ自分が季節を感じられることに気づく。
「生きてるって、素晴らしいわね、今井さん。」
「そうですよ、サチヱさん。今、気づいたんですか?」
「そうなの、今井さんと屋上に来ると本当に、本心からそう思えるの。何故かしらねえ…?」
「…………もう、」
「え?なぁに?」
「サチヱさんとは何度同じやりとりをしたかしら?」
「いやだ、やめて何を言うの。まるで私が呆け老人みたいよ。」
「だって、サチヱさんはもう…、」
「…………。」
「ね、」
きゃああああああああ!!!
青い空を劈くような悲鳴が、突然病院の中庭から響いた。
散歩に出ていた患者や看護師が驚いて周囲を見回す。
悲鳴をあげたのは小学生の小さな女の子だった。
慌てて付き添いの看護師が屈んで、女の子を抱きしめる。
「あららーどうしたの!?何かにびっくりしちゃったのかなー?大丈夫よー!」
「お、おば、おばあちゃんと看護師さんが…飛び降りたよ、怖いよ。怖いい…!えーんえーん!!」
またか…。
看護師は女の子を宥めながらため息を吐く。
そう、この病院では何度も目撃されているのだ。
昔、独り身の寂しげな老女に同情した看護師が、仕事の域を超えて寄り添い、一緒に屋上から飛び降りるという事件があった。
2人の霊は今も病院の至る場所で見られているのだ。
しがみついてくる女の子の髪を優しく撫でて、大丈夫だからと繰り返す。子供は特に霊の類が見えやすいというから、困ったものだ。
けれど、
「ほらほら、もう泣かないの。どうせ嘘泣きでしょ?涙出てないの、看護師さんにはわかっちゃいますからねー?」
「えーん……ふ、ふふっ。ふふふ、つまんないのー。」
「ほら、お部屋戻りましょう?」
女の子の手を取った看護師が、導くように病院内に戻り、角を曲がったところで2人は跡形もなく消えていく。
この女の子には母親が居なかった。
そして看護師は実の子供を失ったばかりだった。歯車が噛み合ってしまった2人は、一緒に居る道を選んだのだ。
今日もこの病院で命を失った患者や、それに携わった看護師たちが慌ただしく行き交う場所。
それが、病院。
さて、あなたにはどれが生きている人間かわかりましたか?
この小説内で生きている人間は?
一人目は朝の検温に来た看護師さん。
検温はサチヱではなく、サチヱの死後に入院してきた患者に話しかけられたものである。つまり、サチヱと新しい患者は重なって寝ていたことになる。
二人目は洗面台でぶつかってきた患者さん。彼女はそこで顔を洗っているサチヱに気づかず、普通に顔を洗いにきただけ。
以上である。