1 狸賽
とある日の夜。コンが言った。
「今日の晩御飯は塩鮭です」
◇◇◇
また、とある日の夜。コンが言った。
「今日は餃子を包んでみました」
◇◇◇
またまた、とある日の夜。コンが言った。
「今夜はビーフシチューですよ」
◇◇◇
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
手を合わせて言う与人に、そう答えるコン。続いて、今日の夕食の出来について尋ねてくる。
「どうでしたか? ペスカトーレ」
「うん、まぁ、美味しかったよ」
「そうですか~」
与人の感想を聞いて、コンは嬉しそうに頬を緩める。
恩返しの為にバイトをして材料費などを貯めた上に、わざわざ料理教室にまで通ったらしい。コンの作る料理は味や見た目がいいのは勿論のこと、レパートリーは豊富で、更には栄養のバランスにも気を配ってあった。家庭料理としては、これ以上のものはなかなかないのではないか。
上機嫌になったコンは、弾むような調子で言った。
「明日は何がいいですかね? カオマンガイ? アロス・コン・ポーヨ?」
これを聞いて、与人はますます渋い顔になる。
「……あのさぁ、きつねうどんとか、稲荷寿司とかはレパートリーにないの?」
「お好きなんですか? じゃあ、朝御飯にでもお作りしましょうか?」
「いや、そういうことじゃないんだけど……」
想像していた狐の恩返しと違う。そのことが与人にはどうしても引っかかるのだった。
与人にはまた、コンが既に明日の献立を考えているらしいことも気がかりだった。
「ていうか、お前まだ帰んないの?」
「与人様は命の恩人ですからね。この程度じゃあ返したりませんよ」
「いいって言ってるのになぁ……」
笑顔で食器を下げ始めるコンの姿に、与人は思わずそうぼやいていた。
(一体、どうすれば帰るんだろう。俺の方から何か頼んだら満足するんだろうか)
食後、読書用の本を手にしながら、与人は台所のコンの様子を窺う。
まだ返したりないと、本気でそう思っているのだろう。料理はともかく、他の家事は負けていないつもりなのだが、与人が手伝いを申し出てもコンにはいつも断られてしまう。実際、この日も皿洗いは彼女の仕事になっていた。
この調子では本当にいつ帰るか分かったものではない。何かコンを納得させる妙案はないだろうか。
与人がそんなことを考える最中、コンは棚の上部に皿を戻そうとしていた。しかし、目いっぱい背伸びしたところで、小柄な彼女ではとても届きそうにない。
ようやく手伝うことができたようだ。本を置いて、与人は立ち上がる。
しかし、結局、今日も与人の出番はなさそうだった。
「うおっ」
与人は思わず声を上げる。
一瞬の間に、コンの背がぐっと伸びていた。
いや、それだけではない。顔つきも、体つきも、ずっと大人びたものに変わっていた。人間で言えば、二十代くらいだろうか。
そんな大人びた姿のまま、コンはこちらを振り返る。なんと、声まで少し低くなっていた。
「あっ、驚かせちゃいましたか? すみません」
「いや、いいんだけど」
まずそう答えると、与人は改めてその事実を確認する。
「そういえば、変化の術が使えるんだったな」
「はい」
頷くコン。それから、謙遜するように補足した。
「といっても、強い衝撃なんかを受けると解けちゃいますけどね」
それを聞いた瞬間、与人はコンの頬をつねっていた。
「あだだだ」
「おお、本当だ」
コンが元の姿に戻ったのを見て、与人は再び驚きの声を上げる。
一方、コンは痛む頬を手で押さえながら反論してきた。
「前に散々見たじゃないですか」
「はっはっは」
与人はそう笑って誤魔化す。
以前は地面に叩きつけて、コンが食材に紛れ込んでいるかどうかを判別していた。だから、「衝撃が加わると変化が解ける」という話を改めて検証する必要はなかったのだが、つい悪戯心を起こしてしまったのである。
「でも、変身が解けるって言っても、狐の姿になるわけじゃあないんだな」
元の少女の姿になったコンを見て、与人は今更ながらそう尋ねた。
「この姿は人化の術を使ったもので、言ってみれば狐の姿の延長みたいな感じですかね。だから、ややこしいようですけど、変化の術とはまた別のものなんです」
「そういうもんか」
言われてみれば、コンの顔つきはツリ目に細面でどこか狐っぽい。幼い少女のような姿をしているのも、彼女がまだ子狐だからではないか。人化の術とやらについて、与人はそんな考察をする。
好奇心が湧いてきた与人は、ついでに質問した。
「他に何かできることとかないの?」
「ありますよ」
そう答えると、コンは片付ける途中だった皿を示す。
「見ててください」
瞬間、皿は魚に変わっていた。
「この通り、自分が化けるだけでなく、物や人を変化させることもできます」
間近で観察してみても、本物の魚――これはアマゴだろうか――のようにしか見えない。元が皿のせいか動きはしないが、それでも今に動き出しそうな雰囲気がある。
そのことに驚きを覚えつつ、与人は一面納得もしていた。
「言われてみれば、狐が泥団子をごちそうにしたり、葉っぱをお金にしたりなんて話はよく聞くなぁ」
「そうですね」
昔話を引き合いに出した与人に対して、コンはそう相槌を打った。
「とはいえ、こっちも衝撃を与えると変化が解けちゃいますし……」
そう言って、コンは魚を軽く叩く。すると、変化が解けて元の皿に戻った。
「それに、一度に一つの物しか変化させられませんけどね」
コンは今度、一枚の皿を魚に変えた後、もう一枚別の皿を魚に変える。すると、最初に変化させた方は、やはり変化が解けて皿に戻った。
これを見て、与人は確認の為に尋ねる。
「一度に一つって、自分が変化するのも含めてか?」
「はい」
そう答えると、コンは変化の術で、今一度大人びた姿になる。その途端にも、先程魚に変化させた二枚目の皿は、再び元の皿へと姿を変えていた。
頭の中で変化の術の性質を整理しながら与人は呟く。
「便利なような、不便なような……」
「そもそも狐って、狸に比べると変化の術が苦手なんですよ。〝狐七化け、狸八化け〟なんて言葉もあるくらいですし」
改めて元の姿に戻ったコンは、自虐的にそう説明した。
ただ、狐が一方的に劣っているというわけでもないらしい。
「まぁ、狸は狸で、色んな人間に化けたり、人間を別の人間に化けさせたりっていう変化が苦手みたいですけどね。一度に複数の物を変化させられるのが狸、何種類もの人間に変化することができるのが狐、ってところでしょうか」
これを聞いて、与人はいくつかの伝承を思い出す。一番の有名どころは白面金毛九尾の狐――玉藻前だろう。彼女は日本以外にも、中国では妲己、インドでは華陽夫人として、時の権力者を惑わしたのだという。
「そういえば、動物が美女に化ける話って、大抵は狐が正体だもんな」
「えー、美女だなんて、そんな」
「お前のことじゃない」
照れ笑いを浮かべるコンに、与人は冷淡にそう返した。
その後も、与人は更に質問を続ける。
「他には?」
「そうですねぇ……」
ちょっと迷ってから、コンは思い出したように声を上げていた。
「ああ、そうだ。憑依ができますよ。私が取り憑いた人間は、私と同じ力を使えるようになるんです」
「ああ、狐憑きってやつか」
「そうです。それです」
与人の解釈を肯定するコン。しかし、それに加えて、補足するような、訂正するようなことも言った。
「ただ、世間で言われる狐憑きというのは、心の弱っている人間に狐が取り憑いて、体を乗っ取っている状態のことですね。
通常は、二人の心がちゃんと通じ合っていないと憑依できないですし、その場合は互いの意識は残ったままです」
「へー」
管狐を始め、人間が妖狐を使役して、その力で財をなしたという昔話はいくつもある。そういった共存関係の例を考えれば、人間側にメリットのある憑依状態が存在するというのも不自然ではないかもしれない。
説明を終えると、思い立ったようにコンが言う。
「ちょっとやってみますか」
憑依状態になるには、互いの体を触れ合わせる必要があるらしい。促されるまま、与人は右手を前に差し出す。コンはそれに自分の手を重ね合わせた。
しかし、そのままいくら待っても、何の変化も起こらなかった。
「……ダメみたいですね」
コンが悄然とした顔で呟く。
憑依が失敗した理由と、コンが落ち込んだ理由。それを与人は理解した上で、あえて口にしていた。
「そりゃあ、お前なんかと心が通じ合ってるわけないしなぁ」
「ひどい!」
与人の言い草に、コンはショックを受けたようにそう叫んだ。
そんなコンを放置して、与人は頭の中でこれまでの話の整理を始める。
コンは自分自身が物や人に変化することもできれば、自分以外の物や人を別の何かに変化させることもできる。ただし、衝撃を加えると変化は解けてしまうし、一度に変化させておけるのは一つだけという制約もある。
また、二人の心が通じ合っている場合はコンが憑依することができ、人間でも前述の変化の術を使えるようになる……
ただの話の整理というには時間がかかり過ぎているせいだろうか。コンが不思議そうに顔を覗き込んできた。
「与人様? どうかされましたか?」
「ちょっと、悪だくみをな」
そう言って、与人は意味深な笑みを浮かべる。
それから、その悪だくみの原典について彼女に尋ねた。
「コン、『狸賽』って知ってるか?」