4 「真剣」勝負②
「時間になりましたので始めてください」
「お願いします」
立会人の言葉で、与人と吉田は礼をし合う。こうして二人の対局が始まったのだった。
先手の与人が一手目を指す。
その手は7六歩。角行の斜め上にある歩兵を前進させて、角道を開けるというオーソドックな手である。
(おそらくは、プロの代打ち……)
与人は盤を挟んで対峙する吉田に目を向ける。
(一体、どんな将棋を指すんだ?)
そんな与人の疑問に答えるように、彼は駒を動かしてきた。
「!」
吉田の手に、与人は少なからず驚きを覚えていた。そして、その驚きは、お互いの手が進むごとに強くなっていく。
与人が驚いたのは、吉田が奇手を指してきたからではない。
むしろ、その逆だった。
(真っ向勝負か……)
与人の取った戦法は『矢倉囲い』と呼ばれる、将棋の代表的な戦法の一つだった。その歴史は古く、今から四百年以上前の江戸時代は元和年間にまで遡ることができるという。
一方、与人の矢倉囲いに対して、吉田も同じく矢倉囲いで応じてきた。
こうして両者が矢倉囲いを用いて戦うことを特に『相矢倉』と呼ぶ。相矢倉も矢倉囲い同様江戸時代からの歴史を持ち、現代に至るまで長い間研究され続けてきた戦法だった。
そのため、現代の相矢倉は序盤がほぼ定跡化していた。具体的には『新矢倉24手組み』といって、初手から二十四手目までをお互いが決まった手順で指すのだ。
そして、この対局でも、与人の矢倉囲いに吉田も矢倉囲いで応じたことで、新矢倉24手組み通りの手順で勝負が進んでいたのである。
この吉田の指し回しを、与人は意外に思いつつ、一方でまた納得もしていた。
(それだけ、自分の腕に自信があるってことか)
奇手やハメ手というのは、大抵は相手の油断につけこんだり、相手のミスを誘ったりするためのものである。だから、相手に正しく応じられたら、自分が不利になるだけに過ぎない。実力で勝ちきる自信があるなら、わざわざ奇手を指す必要はないのだ。
吉田の指し回しを見て、与人はまた部屋で待機しているコンのことを思い出していた。将棋で勝負することが決まって不安そうにする彼女に、言い聞かせた言葉があった。
〝実力勝負で、さくっと勝ってやるさ〟
この対局は、コンの変化を使えない実力勝負である。
更に言えば、全財産200万を賭けた大勝負でもある。
しかし、それでも与人には勝つ自信があった。だから、与人も奇手には走らず、手順通りに指して相矢倉での真っ向勝負を挑んだのだった。
(この勝負、受けて立つ!)
◇◇◇
「封じ手かー」
一日目の対局終了を目前にして、吉田はそう声を漏らしていた。
封じ手とは、主に二日制の対局にのみ適用される特殊なルールである。
二日制の場合、一日目の中断時から二日目の再開時まで、一晩の休憩を挟むことになる。しかし、そのまま中断を行うと、再開までの間に次の手を延々検討できる為、最後に手を指ささなかった方の対局者が極端に有利になってしまう。
これを防ぐ為に生まれたルールが封じ手である。
一日目の中断時に、一方の対局者が、もう一方には分からないように次に指す手を用紙に書いて、封筒に入れておく。そして、二日目の再開時にそれを開封し、前日書いた手を指すところから始めるのである。
「俺、二日制って嫌いなんだよね。再開までに時間が空き過ぎるっていうかさぁ」
対局中ずっと黙っていた反動のように、吉田はペラペラと喋りだす。
「自分が封じる時は、指した手で正しかったのか悩むし、逆に封じられる時は、相手がどんな手を指したかで悩むし。もう一晩中寝れなくなっちゃって――」
「早くしろ」
切子に催促されて、吉田は「あ、はい」とようやく立ち上がった。
しかし、吉田の軽口は止まらない。
「全く、お嬢は昔から気が短いんだから。そんなんじゃあ、嫁の貰い手が――」
と、そこまで言いかけたところで、切子が無言でドスを抜く。だから、吉田はすぐさま謝っていた。
「はい、すみませんでした」
そんなやりとりをしながら、吉田は切子たち立会人を伴って別室へと移動した。これは対局相手の与人に、封じる手を見られないようにする為の配慮である。
このように、封じ手には不正ができないようにいくつかの対策がなされている。
たとえば、用紙を入れておく封筒には、対局者両名に加えて立会人も署名することになっている。また、封じ手は同じ内容のものを二通作り、二日目の対局再開時まで片方は立会人が保管し、もう片方は会場の金庫などで保管する。これらの対策によって、対局者が封じ手を盗み見たり、すり替えたりするのを防ぐのだ。
「…………」
盤面に目を落として、与人は考え込む。
基本的に封じ手のタイミングは任意の為、次に指す手が複数考えられるような場面になった時に行われることが多い。次に指す手が簡単に予想のつく場面では、封じ手をして相手に考える時間を与えなくする意味がなくなってしまうからである。
だから、与人は吉田が封じる手については一旦頭の外に置いて、あくまで現在の互いの優劣のみを考えていた。
現在の状況は――
◇◇◇
「ふぅ……」
夕食を食べ終えると、与人はそう一息ついた。
「今日の飯も美味かったな」
「そうですね」
与人の言葉に、コンもそう頷く。
今日の夕食は中華料理のデリバリーだった。以前「天ぷらに限らず揚げ物は何でも好き」と言っていた通り、コンは炒飯、杏仁豆腐と一緒に春巻きを注文していた。
「与人様、中華料理がお好きなんですか?」
「え? まぁ、嫌いじゃないけど」
コンの突然の質問に、戸惑いながらそう答える。金欠の影響なのか、好き嫌いがないというか、与人は大抵のものは何でも美味しく食べられてしまうのだ。
「でも、どうして?」
「今日はたくさん注文されていたので、もしかしてそうなのかなと」
「ああ。どうも腹が減ってな」
与人の注文は、炒飯にラーメン、焼き餃子、杏仁豆腐、芝麻球(ゴマ団子)である。貧乏性なこともあって普段は少食気味だから、今日は相当食べた方だと言えるだろう。
その原因をコンはこう推測していた。
「一日中、将棋をされていたからですかね」
「そうかもな」
そう相槌を打ちながら、与人は棋界に伝わる逸話を思い出していた。
「プロ棋士なんか、一回の対局で体重が3キロ減るなんて話もあるくらいだからな」
「へー」
「だから、中には夕食にカキフライ定食とチキンカツ定食を頼んだ棋士もいたらしい」
「えー」
コンは驚いたような呆れたような声を出していた。
鰻重を昼食夕食で続けて頼む。やたらとカレーの注文が多い。おやつに大量のカロリーメイトを食べる…… 棋界ではこの手の食事に関するエピソードに事欠かない。そのため、棋士の食事もファンの関心事となっているのである。
そして、どうやらコンも与人の食事を気にしていたようだった。
「でも、そのわりに与人様お昼はあんまり食べていらっしゃいませんでしたよね」
「お腹いっぱいにすると、眠くなりそうで嫌だったからな」
「そういうことでしたか」
対局のプレッシャーで食欲がないとでも思っていたのだろうか。与人の返答を聞いて、コンはホッとしたような顔をする。
しかし、直後に彼女は不安げな表情を浮かべていた。
「あ、あのー」
食事の邪魔をしたくなかったのか、答えを聞くのが怖かったのか。コンは今になって尋ねてくる。
「それで、現在の状況はどんな感じなんですかね?」
「ん、そうだな。簡単に言うと――」
コンは駒の動かし方くらいしか知らないのだ。なるべく分かりやすい表現を使った方がいいだろう。
だから、与人はこう答えた。
「クソヤバイ」
「えぇ~~~~~~~~!?」




