1 狐の礼
「ん?」
学校からアパートに帰ってきた与人は、玄関前の異変に気づいて怪訝な顔をする。
皿の代わりに敷いたのだろう笹の葉。そして、その上に並んだ天然ものの食材の数々。すなわち、イワナやヤマメのような川魚に、マツタケやアミガサタケのようなキノコ、それからフキノトウ、ワラビ、ゼンマイといった山菜類……
(お礼ってことか?)
昨日の出来事を思い出して、与人はそう結論づけた。
迅速果断。答えが出たあと、与人はすぐさま次の行動に移る。
並べられた食材の中から、迷うことなく一つを手に取ると――
それを力いっぱい地面に叩きつけた。
「あいたっ」
食材はそう叫んだかと思うと、その瞬間にも昨日の少女に――コンに姿を変えていた。
やはり、食材に紛れ込んで、強引にでも家に上がる計画だったようだ。家事の手伝いなら昨日散々断ったというのに、まだ納得していないのだろうか。与人は白い目で彼女を睨む。
そんな与人に対して、コンは心底不思議そうに尋ねてきた。
「な、何で分かったんですか?」
◇◇◇
「沢村与人様、助けていただいたお礼に参りました」
部屋の前に食材の並ぶ、その前日のことである。夜、インターホンに呼び出されて玄関のドアを開けると、出会い頭にそんなことを言われた。
これに、与人は思わず尋ねる。
「……誰?」
ツリ目がちの瞳に、若干細面な頬のライン。しかし、全体的にはまだまだ幼い顔立ちをしている。
同様に、和装の大人っぽさに反して、背は低く、胸もなかった。見た目から判断すれば、小学校高学年といったところではないか。
そうしてじっくり観察してみても、与人は少女のことを思い出せなかった。友人の妹か誰かだっただろうか。
「これは失礼を」
困惑する与人にそう謝ってから、彼女はようやく名乗った。
「私は信太森コンと申します」
だが、名乗られたところで、与人の反応に大した変化はなかった。
「え、誰?」
名前にも名字にも全く聞き覚えがない。一応、記憶力には自信があるつもりなのだが……
これを聞いて、コンと名乗った少女は困ったように笑った。
「いやだなぁ。以前、車に轢かれて死にかけていた私を、病院まで連れていってくださったじゃないですか」
「……そんなことあったか?」
事実なら大事件である。忘れたくても忘れられないだろう。
ひょっとして、彼女は人違いをしているのではないか。そんな考えが与人の頭をよぎるが、それを否定するようにコンは話を続けた。
「ほら、二年ほど前に」
「二年前……」
高校進学を機に、与人が東京のアパートで一人暮らしを始めたのが、ちょうど一年前の春である。二年ほど前ということは、まだ大阪にいた頃の事件ということだ。あの頃に出くわした自動車事故といえば――
「あー……」
「思い出していただけましたか?」
コンが嬉しそうな顔で尋ねてくる。
その一方で、与人は怪訝な表情をしていた。まさかだろう。いくらなんでも、そんなわけがない。
「いや、怪我した狐を動物病院まで連れてった記憶ならあるけど……」
「はい、それが私です」
与人の推測を一蹴するどころか、コンはいっそう嬉しそうな顔を浮かべる始末だった。
ここに至って、与人はますます混乱してくる。何が何だか分からない。近所の子供のイタズラだろうか。しかし、それにしては手が込み過ぎている。
「一体、何を――」
「はいっ!」
与人の質問を遮って、コンはその場で宙返りする。
いや、違う。コンはあくまで与人の質問に先んじて答えただけだった。
着地したコンは、宙返りの前と明らかに姿が異なっていた。頭には尖った三角形の耳、尻には大きく膨らんだ尻尾が生えているではないか。
まるで狐のそれだ。
そう与人が思った瞬間にも、コンは再び宙返りをする。
「はいっ!」
着地した彼女に合わせて、与人は視線を下へと移動させた。コンが随分小さくなったからである。
より正確に言えば、コンが狐そのものになったからである。
「もう一つおまけに、はいっ!」
三度目に宙返りしたあとのコンは、与人もよく知った人物になっていた。
高二の平均と比べ、やや長身で痩せ型の体型。長めながら、特に染めるなどはしていない髪型。だから、一見して秀才風、優等生風の容姿である。ただし、よく観察すれば、眼鏡の下の瞳は鋭いことが分かる。
コンは与人の姿になっていたのだった。
同じ見た目どころか、同じ声でコンは言う。
「信じていただけましたか?」
「……気味が悪いから、一旦元の姿に戻ってもらえないか?」
言いたいことは色々あったが、与人はひとまずそう頼んだ。コンは「ああ、すみません」と謝って、すぐに最初の少女の姿に戻る。
その後、「立ち話もなんだから」と、与人はとりあえず彼女を自分の部屋に上げることにした。
安いアパートの狭い部屋。安いお茶の薄い味。客をもてなすには全く適さないが、住み慣れた与人にはこれが落ち着くのだった。助けた狐が恩返しに来るような、非現実的な事態に巻き込まれた時には特に。
そうして気持ちを落ち着けてから、与人は改めてコンに質問する。
「えーと、化け狐とかそういうこと?」
「はい」
「実在したんだな……」
昔話などではよく聞くが、本物を見るのは勿論これが初めてである。かといって、今更手品の類を疑う気にもならないが。
「まぁ、とりあえず元気そうで良かったよ」
未だに困惑したままなので、与人はそんな話をして誤魔化すことにする。
とはいえ、コンのことが――事故に遭った狐のことが気になっていたのも確かだった。怪我から回復したところまでは見届けたが、それから野生に返したので、その後どうなったかまではよく知らなかったのだ。
「はい、おかげさまで」
与人の言葉に、コンは笑顔でそう答えた。
そして、その笑顔のまま続ける。
「というわけで、あの時のお礼をしに参りました」
先程再会を果たした時にも、コンはそんなことを言っていた。どうやら話がようやく本筋に戻ったようだ。
それで、与人は確認を取る。
「……お礼って?」
「炊事、洗濯、掃除」
「それなら間に合ってるよ」
そう断ったが、コンはなお食い下がる。
「育児」
「子供いないから」
「よ、夜伽」
「作る気もないから」
赤くなるコンに、与人はそう言って聞かせた。コン自身が子供のくせに、一体何を考えているのだろうか。
それから、与人は続けてこうも言った。
「ていうか、お礼とか別にいいよ。何となく気になったから助けたってだけだし」
傷を負って息も絶え絶えの子狐。沈痛な様子で寄り添う親狐。それらが痛ましく思えて見過ごせなかったという、ただそれだけのことである。
しかし、コンもそう簡単には譲らなかった。
「そんな訳にはいきませんよ。与人様は命の恩人なんですから」
また、念を押すように話を続ける。
「それに、今日という日の為に変化の術を習得したんですし」
「そうなのか?」
「はい。前々から修行自体はしていましたけど、恩返しの為にいっそう頑張りました」
質問にそう頷くコン。その顔には、少し誇らしげなところがあった。
「変化は高等技術ですからね。今は山林がどんどん切り開かれていって、そこに住む生き物たちの力が弱まっていることもあって、地元の若い狐で使えるのは私くらいなんですよ」
「へー、それは凄いな」
何故今になって恩返しに来たのか不思議だったが、この二年間は恩返しの為の準備期間だったようだ。その努力も含めて、与人は感心する。
すると、この様子を見て、コンはまた繰り返し言った。
「ですから、お礼を!」
そうして語気を強めるコンだったが、与人は気が進まなかった。
「お礼ねぇ……」
「もしかして、化かされてるんじゃないかとか思ってます?」
不安そうに尋ねてくるコン。自分の正体が狐だということを気にしているようだ。
だから、与人はすぐに答えた。
「まさか、そんなことはないよ」
「与人様……」
「能力を明かさない方が、どう考えても騙しやすいからな」
「えぇー」
与人の返答に、コンは驚いたような、がっかりしたような声を上げていた。
そんなコンには構わず、与人は話題を元に戻す。
「そうじゃなくてさ、お礼なんて別にいいって話だよ」
これは本心だった。あの時助けたのは気まぐれのようなものなのだから、そこまで躍起になってお礼をしてもらう必要はない。相手がコンのような小さな女の子(?)なら尚更である。
与人はまた、本心からこうも付け加えた。
「俺の為に頑張ってくれたのは分かったけど、その気持ちだけで十分だから」
だが、これを聞いても、コンは納得いかないらしい。「そんなー」と不満げに口を尖らせていた。
だから、与人は彼女をなだめつつ、話を強引にまとめてしまう。
「ま、これからは車に気をつけるんだな」
そして、「じゃあな」と半ば無理矢理に彼女を帰らせることにした。
これに対して、コンは何度もお礼を言って、頭を下げて、それでやっと与人の元から去っていった。
そんなコンの後姿を見送りながら、与人は「妙なこともあるもんだな……」と、文字通り狐につままれたような気分でぼんやりと考える。
しかし、本当に妙なことに巻き込まれ始めたのは、この日の翌日からだった。
◇◇◇
その翌日のことである。
「ん?」
学校からアパートに帰ってきた与人は、玄関前の異変に気づいて怪訝な顔をする。
皿の代わりに敷いたのだろう笹の葉。そして、その上に並んだ天然ものの食材の数々。すなわち、イワナやヤマメのような川魚に、マツタケやアミガサタケのようなキノコ、それからフキノトウ、ワラビ、ゼンマイといった山菜類……
(お礼ってことか?)
昨日の出来事を思い出して、与人はそう結論づけた。
迅速果断。答えが出たあと、与人はすぐさま次の行動に移る。
並べられた食材の中から、迷うことなく一つを手に取ると――
それを力いっぱい地面に叩きつけた。
「あいたっ」
食材はそう叫んだかと思うと、その瞬間にも昨日の少女に――コンに姿を変えていた。
やはり、食材に紛れ込んで、強引にでも家に上がる計画だったようだ。家事の手伝いなら昨日散々断ったというのに、まだ納得していないのだろうか。与人は白い目で彼女を睨む。
そんな与人に対して、コンは心底不思議そうに尋ねてきた。
「な、何で分かったんですか?」
全く気づいていないらしい。与人は怒り半分呆れ半分に教えてやる。
「この時期に野生のマツタケがあるか」
「あっ」
コンはそう声を上げる。春の食材の中に秋のキノコが交じっている不自然さを、ようやく理解したようだ。
かと思えば、コンは自分が持ってきた食材を手にして言う。
「では、今日はこれでお夕飯を作らせていただきますね」
「ナチュラルに恩返しに移行するな」
眉根を寄せる与人。生真面目で素直なように見えて、意外と太い神経をしているようだ。
そうして険しい表情をしたまま、与人は昨日の発言を繰り返す。
「お礼ならいいって言っただろ」
「それはそうなんですが……」
納得いかないようで、コンはそう食い下がってきた。
だから、その手から食材を取り上げると、与人は再び言い聞かせる。
「もうこれで十分だから。マジで帰れよ」
「…………」
「返事!」
「はっ、はい」