1章1話:異世界への転移と違和感
ーー誰かが呼ぶ声がする。
目を開けるとそこは、鉛色の空と影のついた草原。草原を覆う霧がその空気をさらに重々しいものへと変えている。要するに、いつもの夢の光景だ。
けれどなんだか、いつもより見える範囲が広がった気がするのは気のせいだろうか?
木葉はその脳をフル回転させて記憶の中から夢の景色を捻り出そうとするが、どうしても思い出せない。結局感覚で測るしか無くなってしまう。
測り方は簡単だ。木葉と、女の子の距離感である。いつものように目の前に立つ少女は、いつもより離れたところに立っていた。夢の中では女の子の後ろというのは霧に隠れて全く見えなかったのだから、距離の目測は必然的に女の子が基準点となる。その女の子がいつもより離れたところに立っていると感じたのだから、それはつまり霧が後退していることを示しているに違いないのだ。
(そうだ、私はこの子に、名前を聞きたかったんだ)
6年も会い続けているのに、そう意識することがなんらかの力によって阻まれていたような気がした。今日は何故かその『質問』が真っ先に頭に浮かぶ。
「え、えっと……」
「木葉」
「……へ?」
少女に名前を呼ばれて、やはりどきっとしてしまう。顔も見えないのに、少女のクリアな声からその造形が想像できる。真っ先に思いついたのが、幼い時に絵本で見たシンデレラだった。次に白雪姫、人魚姫、かぐや姫……一貫性がない。
「そうね……私の名前は、まだ教えられない」
「ーーッ!? どうして? 私、貴方の名前を知りたい! 貴方の顔だって!」
そこまで言って、私は不意に微笑んだ少女の表情を見て何も言えなくなってしまった。
「私は__________だから、きっと________なの。でもね、木葉。_______だよ。だから、いつか、いつか
_____________私を連れ出してほしいな」
少女がにっこりと微笑む。ああ、だめだ。この感覚はダメだ、覚めてしまう。夢が終わってしまう。
いつもそうだ、と木葉は思う。いつもいつも、木葉がその子に手を伸ばそうとするところでその夢は終わってしまう。それがたまらなくもどかしくて、木葉は時々涙を流したまま目を覚ます。そうしてその内容を忘れてしまうのだ。
ただ覚えているのは、灰色の草原で女の子と出会って、"真剣"を撃ち合うこと。二本の日本刀が揺らめくその描写だけは、何故かカラフルな世界に彩られている。2つの流線だけが世界に彩りと時間を与え続けてくれていた。
だけど、木葉は今回ばかりは、そうなることが許せなかった。
「だめだよ……」
「え?」
「忘れたくないッ! 私は、この夢の中で貴方と喋ったことも貴方の声も、その表情も、忘れたくないよ!」
その瞬間、少女の表情がさらに見えた気がした。髪の毛は、青みかかった黒。顔はまだわからなかったけど、そのミステリアスな雰囲気が木葉を魅了してやまなかった。その髪には、青と銀の鉱石で装飾された星が連なったような髪飾りが付いている。
少女は驚いたように立ちすくんでいたが、やがて何かを決意したように木葉の元へと歩みを進めた。
近くまで来たというのに、その顔は相変わらず真っ黒なクレヨンで塗りつぶされたかのように見ることができない。けれども歩み寄って木葉の手を取った少女は、間違いなく笑顔だった。
少女は美しい髪飾りを髪から外して、木葉の手のひらに押し付けた。チャリっという金属の擦れる音がして、木葉の手のひらに重みがかかる。
「え、えと、これは?」
「持ってて。お守り」
その瞬間、霧が広がったように視界が遮られていった。夢が醒める前兆だ。
「ま、待って! 私はまだ!」
夢が醒める瞬間、木葉は彼女の口の動きをかろうじて読み取ることができた。
「………………ま………………らね」
…
……………
……………………
「うぅ。あ、あれ?」
「よかった! 起きたのね、木葉ちゃん!」
柔らかい何かに包まれて、木葉は目を覚ました。それは尾花花蓮の胸の感触だったらしい。お嬢様系女子の包容力は凄まじいようで、木葉は危うく二度寝に至る所であった。
「危うくない! 寝てる、寝てるよ木葉ちゃん! 二度寝はダメよ!」
「うぅ、花蓮ちゃんの手、あったかいな。すぴー」
「嗚呼、木葉ちゃんの寝顔がこんなに近くに! ここが天国!?」
余裕を取り戻したのか、あまりにも可愛すぎる木葉の寝顔を見て鼻血を垂らし始めるくらいには通常運転に戻っていた。それを見守っていたクラスメイトたちは若干引いている。
「良かった、木葉起きたんだな!」
「樹咲ちゃん! うわぁぁぁん!」
木葉が鮭川樹咲に抱きつく。169センチと比較的女子の中でも高身長の樹咲なので、木葉との身長差は中々のものだ。自分を頼って抱きついてきてくれたことを内心喜びつつ、樹咲は木葉を落ち着けようとその髪を撫でた。
一方樹咲へと浮気されてしまった花蓮はかなり不機嫌そうである。怨念オーラが滲み出すぎて、クラスメイトはさらに1メートル距離を取る。
「よかったぁ。これで全員目を覚ましましたね」
笹ちゃん先生こと最上笹乃先生。先生という大人がいることで、木葉の安心度が更に増していった。
「笹ちゃん先生!」
「こ、木葉さ、ぷぎゃぁあ!!」
「よかった……よかったよぉ」
木葉が笹乃に抱きつく。花蓮と樹咲が嫉妬したように笹乃を睨んだため、一瞬ビクッとなってしまった。
しかし木葉の不思議そうな顔を見ているとこの子を抱きしめていたいという気持ちが強く勝り、そんなことは気にならなくなった。
「えっと、それで、ここはどこなんですか?」
見たところ1-5のクラスメイト全員が、この空間にいるらしい。ここはどこかの建物の中らしく、ステンドグラスの窓、並ぶ固定式の長椅子といった内装から、どこか教会のようなものが連想できる。
そして奇妙なものがもういくつか。それが彼らだ。
「ああ、最後の1人がお目覚めになられたようですね。僥倖です。さて、話の続きをさせて頂いても宜しいでしょうか?」
目の前に現れたのは、真っ白の布を纏った神官のような出で立ちの人たちだった。最前列にでている男は柔和な笑みを浮かべているが、他の連中は真っ白なフードを被っていてかなり不気味な様子だ。
「えっと、この人は?」
「あ、えっと、櫛引さんが倒れてる時に説明してたから話せば長くなるんですけど……ていうか私もまだ理解が追いついてないんですけど……」
どうも笹ちゃん先生の歯切れが悪い。そんなにわけのわからない話でもしたのだろうか?
「落ち着いて聞いてくださいね?」
「う、うん」
「私たちは、どうやら異世界を救う救世主としてここに召喚された"勇者"様一行、らしいのです……」
「………………………………へ?」
…
……………
………………………
ナレーションが説明しよう。笹ちゃん先生によると、1-5の生徒たちはここ【神聖パルシア王国】に、この世界を救う『勇者』として異世界召喚されたというわけだ。え?わけがわからないよ?うーん、困ったな。
「ですから! 【魔王】の復活が予言され、魔族が現れるようになって、【亜人族】も暴れるようになって、我々は大変危機に陥っているのです! どうか、どうか勇者様ご一行のお力を貸して頂きたくッ!」
「ど、どうしよう花蓮ちゃん。私今この人が何て言ってたのか全然わかんない!」
「安心して木葉ちゃん。私もわからないわ」
木葉としては現実感のない単語が続出しすぎて頭が混乱しているのだ。実際先に説明されていた笹ちゃん先生たちですら未だに理解できていない。
「つまりあれだろ? この世界にいる亜人族ってのと魔族ってのが人間に危害を加えるようになったから、それで俺たちを『勇者』として召喚して、元凶である『魔王』を倒して欲しいってことだっしょ? やば、やべぇやべぇ、アガってきたわぁ〜」
金髪オールバックの男子が興奮気味な表情でそう言う。彼の名は『天童 零児』。チャラそうに見えて実は結構なオタクで、異世界だのなんだのには内心相当憧れていたらしい。先ほど木葉とともに新作ゲームを見ていたのが彼だ。
「飲み込み早え。さっすがオタク、もうモロバレじゃねぇか!」
こうやって囃し立てている茶髪の短髪男子が、零児とよくつるんでいる『戸沢 菅都』だ。サッカー部に所属するチャラ男風の彼もまた、1-5の中心的な人物である。
「取り敢えずみんな落ち着け。木葉も起きたことだし、今はみんなで一丸となってこの事態を打破することが大切だよ」
明るめの茶髪のイケメンは、クラスのまとめ役である『白鷹 語李』。とにかくいい奴で、文武両道の超人だ。学年では、木葉に釣り合う男子は彼くらいだろうと噂されているレベルである。
「ご理解とご協力感謝します。では、重要なことを話させてていただきます」
目の前の胡散臭そうな男が再び話し始めた。さぁ、ナレーションの解説タイムである。
まず1-5の彼らを襲ったのは、『戻れない』という事実だった。なんでも彼らを呼び出したのは【満月様】とかいう神様らしく、その神様のいう『世界の救済』を成し遂げるまで現状での日本への帰還は困難であるとのことらしい。取り敢えず異世界にいる間は、神聖パルシア王国と【満月教会】という宗教団体がバックアップに当たるとのこと。
これには流石に笹ちゃん先生が憤慨した。ふざけるな、生徒たちは関係ない、私たちを日本に帰せ、と。だがしかし、そんなことは不可能であると断言され、あれこれの説得を経て一先ずは落ち着くこととなった。勿論納得はしておらず、笹ちゃん先生はどこか不安そうな顔をしている。
「それで、俺たちはどうすればいいんですか? その『魔王』と戦う云々の前に、俺たちはただの学生です。戦う力なんて持っていない」
白鷹語李の言い分はもっともだ。ただの学生を勇者として召喚するのはおかしくないだろうか。その疑問にも、男はなんら表情を変えることなく淡々と返す。
「異世界から召喚された勇者様方には、『役職』と『スキル』というものが満月様から与えられます。これがあれば、おそらく魔族や亜人族に対抗できるでしょう」
「ーーッ!? それを使って戦えと?」
「本来なら早めに役職とスキルを検査しておきたいのですが……さぞお疲れかと思われますし、状況を整理したいとお思いになるのも当然のことでございます。検査は明日にと致しまして、本日は王宮内に部屋を用意させて頂きました。どうかごゆっくりお休みくださいませ」
話が進み過ぎていることへの不安感はあったが、白鷹語李はその不安感を飲み込んで会話を進める。
「王宮内、ということは王族のような方々が住むところだと思ってるのですが、我々のような部外者を入れても大丈夫なのですか?」
「話は神聖王国上層部に通しております。明日、国王陛下に謁見していただくことになりますので、時間は後ほどお知らせいたします。王宮はこの上となっております。ではお部屋に案内しますので私についてきてください」
白鷹語李が理知的に話を進めたため、なんとか第一関門をクリアしたらしい。
とは言えこんなファンタジー満載の話を直ぐに信じることなどできず、生徒たちは不安と恐怖で押しつぶされそうになっていた。いつも通りならここで櫛引木葉や白鷹語李が何か発言してみんなを落ち着けるのだが、両者ともだんまりを決め込んでしまっている。
故にそれを察した笹ちゃん先生がみんなの前に躍り出た。
「みなさん!」
「……せ、んせい」
少し声は震えていたが、それでも精一杯声を絞り出す。
「多分今、不安でいっぱいという方が多いと思います。帰りたいって強く願ってると思います。でも、今は彼らに従いましょう。戻れないのならば、1-5のみんなで結束して行きましょう。体育祭を、文化祭を思い出してください! 今までだってみんなで結束してきたらなんとかなってきました。異世界でだって同じです!」
「で、でも。先生!」
「先生がみんなを責任を持って日本に送り届けます! 約束です。だから、私を信じてください! 帰れる方法はきっと見つかるはずです!」
辿々しく、お世辞にも上手とは言えないスピーチ。それでも先生の、信頼出来る大人の心強い発言によって生徒たちの心にはわずかに希望の火が宿った。そのまま白鷹語李や天童零児、戸沢菅都らが囃し立て、宮殿への道中は思いのほか賑やかなものであった。
しかし一部の生徒は『とあること』を心配していた。
(このは、ちゃん?)
訝しむ尾花花蓮の目線の先にいる人物。
櫛引木葉についてのことである。
いつも元気一杯の彼女が、どうしてだかいつもより圧倒的に口数が少ないのだ。それも何か思いつめたように考え込んだ様子で、どうも話しかけていい雰囲気ではなかった。
そして当の櫛引木葉はというと、
(なんか、変)
自分の身体に違和感を感じていた。何か得体の知れないものが自分の中に入っているような感覚を覚え、心臓の鼓動が早まるのを感じる。血の巡りが早く、なんらかの異常が起こっているのは明らかだった。
(怖い……怖いよ……)
木葉は、いつのまにか髪飾りを握っていたことに気づいた。小さな紫陽花のような色の蒼い星がいくつも連なり、鮮やかな銀細工が施された高価そうな髪飾り。
そしてもう一つ、木葉の首にはやはり蒼い宝石が散りばめられた不思議な形のロザリオ。真っ先に考えつくのはあの夢だ。しかし木葉は、その夢の内容を思い出せなかった。
(でも、あの子は、あの女の子が言った最後の言葉は覚えてる。あの子は私に確かにこう言ったんだ)
__________待ってるからね。
その時、木葉の中で時計の針が動き出したような音がした。謎の違和感を抱えつつ、木葉は王宮への長い階段を登っていくのだった。