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第五回 胸算違いから見一無法は難題 ……本当、難題。

 枕頭で喚覚ますスマフォの声に見果てぬ夢を驚かされて、文が狼狽た顔で画面を見れば、普段より少し早いアラームの音に乗せ、メールの受信通知が画面に射している。知らぬアドレスからではあるが、ローマ字でさかもとと綴られているからには何とも判りやすい。タイトルは無題、内容は頑張りますの一言。

 私は狐につままれたような気分のままに、陽が高い時間にも関わらず、未だ目覚めてくれない怠け者の身体を、少し暑めのシャワーで無理矢理起こそうとしていた。皮膚の下のもっと深く、身体の芯の芯から、ゆっくりと広がるように感覚が覚醒してゆく。起き抜けに熱いシャワーが身体に及ぼす影響などはさて置いて、私はこの感覚が好きである。髪の毛を乾かしながらメールを確認するも、先のメールが消えているわけでもないからには、先週のあれは私の空想夢想ではなかったらしい。

 髪のセットに思ったよりも時間がかかり、お洋服選びとお化粧とで、気が付けば間に合うはずの時間に間に合わなくなっている。それが私の愛すべき日常なのだが、何だか今日は癖毛の機嫌も良く、すんなりと装いも纏まった為に、いつもよりも少しばかり早くブルーの車輌に乗り込んだ。念の為に釘を刺しておくが、今日のこの日に何らかの期待を持って、予め着ていく服を決めていた、だなんてことは決してないし、アラームがいつもより少し早く鳴ったのも単なる偶然である。そう、単なる偶然である。

 少し早い時間、大凡一般的な大学生諸氏が講義に間に合うように通学する時間、に電車に乗った為、車内はいつもよりも混み合っていた。地下鉄のホームに降り、地上に出ては人波に呑まれ、敷地内の工事を尻目にスロープを上ってゆく。そのまま真っ直ぐキャンパスの最奥、四号館の四階へと足を向ける。学生の詰まった階段を、少し息を上げながらもどうにか四階まで上がったところ、十分前のこの時間にも既に半分程の席は埋まっていた。態々前の方の席に座るような学生らがこの講義にそう出ているわけもなく、前の方は未だ殆ど空席である。

 私は先週の席、前から二列目の左から二番目に着くと、次々に入ってくる学生の列に眼を向けていた。多種多様な服装をした学生が流れ込んでくる。直ぐに件の彼女もその中に見つかった。何となく目で追っていると、先週同様に右側の窓際に着くようだ。長めの黒髪には落ち着いた白色の、細身のカチューシャが乗っている。薄いブルーのワンピースはウエスト位置が高めに絞られたありがちなもので、上に薄手のカーディガンを羽織っている。……寒くないのかしら。私的には色合いに季節感がないのが気になるのだが、男子一般にはあまり気にならないことなのだろう。

「文さん、おはようございます」

 不意に声を掛けられた私は、その主の方へと向き直る。インディゴのシャツに白のチノパン。少し長めの艶やかな黒髪には、今日も今日とて天使の輪が浮いている。言うまでもなく、坂本が立っていた。前の方の席も埋まりつつある為、前列に並んで座る形になった私達の姿が際立って目立つようなことはないはずである。然し乍ら、先週のインパクトが余程強かったのか、周囲が少しばかり騒つく様子が聞いてとれた。

 当の本人と言えば、そんなことは意に介す様子もなく、至って真剣な、戦地に赴く武士の表情を浮かべている。坂本の表情とその風体との落差が私には面白おかしく感ぜられ、内心少しだけ笑って了った。とは言え、乙女から連絡先を受け取りながら、今日のこの日まで一報も寄越さなかったこの礼儀知らずには、釘を刺しておかねばなるまい。

「君さ、アドレス教え」

「すみません文さん、集中したいので。終わってからでお願いします」

 私の抗議の意を遮ると坂本は硬く眼を瞑り、眉間に皺を寄せ、思案に耽っている。彼のその必要以上に一生懸命な表情を見ていると、何だかもうどうでも良くなってきて了った。後でケーキでも奢ってもらおう。

 最初は見開けていた空席が、何時の間かぽつりぽつりと浮くばかりに。坂本は最後の確認とばかりに、メモ帳に目を走らせていた。横目に覗くような無粋なことこそせねど、この緩やかな雰囲気の教室内で、一人だけ一世一代の大舞台に臨む心意気を露わにしている。肚を括ったその表情に、周りとのギャップに。私は思わず失笑して了った。

「何ですか」

「ううん、何でも」

「何ですか、僕は真剣なんですよ」

「知ってる」

「じゃあ何で笑っているんですか。言いたいことがあるならはっきり言って下さい」

「あのね、」

「はい」

「頑張って」

「えっ……、あっ、はい」

 張り詰めた顔付きから、きょとんと眼を丸く。くるりくるりと色を変える表情は、相も変わらず見ていて飽きない。


 程なくして。件の仏が顕現し、大教室の騒めきは、説法を聞かむとトーンを落とす。その実は仏ではなくソリスト、説法ではなくα波の独唱ではあるのだが。ただ、いつもであれば既に机に伏している学生らの姿は、消えて了ったかのよう。心做しかそわそわと騒ついた教室内。

 結局は皆が皆、刺激を求めている。

 教授は、こんにちはの声に続けて、上野で開かれている美術展の話を切り口に、お決まりの雑談を始めた。雑談の合間に遅れて入ってくる普段の私が、ひとり、ふたり。周囲は皆、起きてはいるものの……、起きてはいるものの。真打が前座扱いされるのは、内心としては如何なものなのか。兎も角、教授は雑談を進める。時折黒板に何やら走り書くのだが、気付けば、上野駅、本、鈴木とだけ綴られている板書には、果たして書く意味があるのだろうか。勿論、時計の針も進む。刻一刻と、時間が迫っていた。

「……ということでしてね、アカデミズムに身を窶していると、どうしてもそう言った遣り取りになって了うんですよ。貰っても誰も読みやしないのにね」

 数名の生徒がくすりと笑う。きっと教授は何か冗談を言ったのだろうけれど、解ったどころか聞いていた生徒は多分殆どいなかった。私含め。

「いつもは寝息を立てるほどに落ち着き払っている皆さんが、今日は何故か、落ち着かない様子ですが……では。何か質問などありますか?」

 教授の茶目っ気香るアイロニーに、

「はい」

 鉄を弾くような高い声色。言うや否や、坂本は勢いよく立ち上がり(膝を机の脚にぶつけながら)、右脚を少し引き摺るようにして、教壇へと向かう。

 どうぞと優しく教壇を譲る教授は、矢張り仏か何かに違いない。私は仏がどういうものなのか、よく知らないけれど。坂本は、失礼しますの一言を置き、少し大袈裟に息を吸い込み、口を開いた。

「英文科二年の坂本です」

 その律儀な前置きも、果たして必要なのかしら。

「先日の方、今日もいらっしゃいますか。良ければお名前を教えてください」

 いいぞ、頑張れ坂本。

 窓際の彼女は、これまた律儀に軽く手を挙げ、本田です、と。

「本田さん。き、綺麗な名前ですね」

 ……へ、下手くそ。

「えっと、何を言おうか考えていたのですが、何故僕が貴女に好意を抱いたのか、それを説明しないと、きっと不審に思われるだろうなと、そう思いまして。手短に話します」

 そう。この前のことを話せば、きっと好印象を抱いてくれるはず。

「……貴女のことを、後ろから見ていました。優しいところに惹かれました。どうか、お付き合いをして下さい!」

 坂本くん、

「い、嫌です」

 それだとただの、

「ストーカーかよ!」

 一人の男子学生の突っ込みと共に、教室内は爆笑と相成った。残念ながら、坂本の告白は二度目も成らなかった。

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