第四回 言うに言われぬ胸の中……そろそろ、言ってしまってもいいかしら?
さてその日も漸く暮れる……と云うにはと少し気の早い四時頃に成っても、勢一の思考が建設的な方向に進む光景も見えず、何時まで待っても果てしのない事ゆえ、私は良い加減に妥協策を模索しようとしていた。
「そうだ、散文は難易度が高そうなので、和歌とか都々逸とかだと、どうですかね?」
どうですかねも何も、考えていた平面の問題に突然Z軸が飛び出してきたようなもので、私はというと、呆れ半分、後悔半分。彼については話半分に聞いておくのが正解なのかも知れない。と、この時に改めて認識した気がする。
「ごめん、私が悪かったわ。軌道修正してゆく方針でいこうかと思ったのだけれど、その方針を軌道修正する必要がありそうね」
「と言いますと?」
「あのね、君。このご時世、何処に自分の思いの丈を、都々逸に乗せて届ける人がいるって言うのよ」
「え、でも良くないですか? 都々逸。恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」
「岡惚れ三年、本惚れ三月、思い遂げたは三分間」
「揶揄わないで下さいよ」
「私は君に揶揄われている気分よ」
きょとんとした表情で私を見遣る坂本は、さながら小動物か何かのようで。
「でも、江戸時代から続く伝統芸能ですよ」
「あのね、都々逸の善し悪しを言っているんじゃないのよ」
「粋じゃないですかね?」
「また振られたいの?」
私の言葉を聞くや否や、明らかな動揺を顔に浮かべる彼の様子に、思わず笑って了った。
「冗談きついですよ、僕はこれでも傷心の身ですよ。そうだ、文さんがもし、全然知らない男の子からあんな形で告白されたら、どういう気持ちになりますか?」
成る程、確かにその発想は悪くないかも知れない。極々普通の女の子よりも少しだけ慎ましい、そんな大和撫子を体現していると言っても過言ではない私ならば、一体あの告白を如何に受け取るだろうか。
暫し虚空に意識を飛ばし、夢想に思考を巡らせる。少し傾く陽が緩やかに、差し込む多人数教室。空気震わすαの波に、凛と響かす彼の声。マイク通して見知らぬ彼に、一目惚れだと告げられて。
……駄目だ、脳が都々逸に侵蝕されている。深い息と共に七七七五を吐き出しきった私は、少し冷静に考えて、
「……そうね、何で私? ってなると思う」
「何で私? ですか」
そう言うと少し視線を落とす、坂本。
「あと誰だよ、ってなる」
「誰だよ、ですか」
表情を曇らせる、坂本。
「少し怖いかも」
「怖い……ですか」
ため息混じりにそう吐き出す、坂本。
「ちょっと、訊かれたから答えているのに、聞く毎に落ち込まないでよ」
「何だか僕、もう立ち直れない気がします」
「いや、でもそうね。要は、君がどうして彼女に一目惚れするに至ったかを伝える必要がある、ってことじゃないかしら」
きっと私が彼女の立場なら、見ず知らずの男の子から前置きも無しの唐突な告白を受けるよりも、先程坂本が一生懸命語っていた件の経緯を(簡潔に)説明された方が、聞く側としても気分が良いし、納得も出来る気がする。何れにせよ、坂本が段々と沈んでゆく為に言い出せなかった、「何で今?」という疑問が解消されることはないのだが。
「理由ですか。成る程」
そう呟くと坂本は、またも急に表情を明るくし、
「何だか、解ったような気がしてきました。そうですよね、そこを説明しないといけませんよね」
と、真面目な顔でメモ帳に何かを走り書いている。
「大丈夫? 私にも何か……」
覗き込もうとすると、坂本は私から隠すようにメモ帳を閉じ、
「いえ、大丈夫です。安心して下さい。僕の言いたいことを僕の言葉で言いますから」
どうですか、学習しましたよ。とばかりに、坂本は私に向かってウインクをし、ペンを握っている手の親指を立てて見せる。うん、何一つ安心出来ない。が、私もそう言ってしまった以上、引き攣った笑顔で親指を立て返すことしか出来なかった。
「そ、そうね。じゃあアドヴァイスならいいかしら?」
「ええ、勿論ですよ!」
「講義中にする訳だし、あまり長く話して了うと教授にもご迷惑でしょう? 当然、君も言いたいことが沢山あるとは思うのだけれど、少しだけ簡潔に伝えた方が良いんじゃないかなって」
「うーん、簡潔にですか」
少し納得のいかない様子の坂本。危ない。このままこの子を解き放って了っては、私に食べさせたあの衣の塊を、そのまま教壇で話しかねない。
「お、女の子はストレートに伝えられた方が、気を惹かれる生き物なのよ!」
私の口から出任せに、目を光らせる坂本。よし、勝った。
「眼から鱗とはこの事です。ストレートにですか、成る程……あ、」
突然焦ったように腕時計に視線を移した坂本は、
「すみません、文さん。僕次の授業、本キャンパスなんです。そろそろ行かないと」
と、慌てて荷物を纏め始めた。私も急いで手帳の端にメールアドレスを走らせる。
「これ、私のアドレス」
それを破いて渡そうとすると、
「えっ! こんなもの頂いちゃって、いいんですか……?」
といった具合。たかがアドレスが書き殴られた手帳の切れ端を、さも菓子折りか何かのように恭しく扱う坂本の様子に、私の方が困惑して了った。
「ありがとうございます。僕……文さんのこと忘れませんから」
今生の別れでもあるまいし。という突っ込みを挟む間も無く、坂本は深々と頭を下げると、本キャンパスに向かって駆け出していった。カフェテリアから出てゆくまでの十数メートルの間に、人に二度もぶつかりながら。
それからの一週間は平和なものだった。全休の金曜日は、お昼まで眠って、お気に入りの映画を心ゆくまで観返して。土曜日はさやかとウィンドウショッピングに明け暮れて、日曜日は映作研(映像作品研究会)もとい映画を観ながらお酒を飲み交わし談笑しましょうサークルの仲間と、公開中の映画を観に行って。月曜火曜水曜と、親愛なる変わり映えのしない、いつも通りの日常が過ぎ去っていって。件の彼は全くメールを送ってくる気配もなく。最初こそアドレスを教えてあげたのだから、一報寄越すのが礼儀だろうに、だとか思っていたが、数日愛すべき日常と戯れるうちに、まるであんな非日常はお伽話だったかのように、そんな風に感じていた。ような気がする。
木曜の朝、頑張りますの一言だけが、送られてくるまでは。