第三回 余程風変な恋の初峰入 下 だから、峰入って何。
今年の宵の冬、或一昼、というか今日の昼。勢一が通学より歩いて見れば、道行く金髪の青年が空き缶をポイ捨てしていて。ただそんな日常の一コマ。切り取られた現代像。ありがちな光景。
「来週も教壇で告白するつもりなんでしょう?」
「止めといた方がいいですかね」
「いや、いいんじゃない? 折角なんだし」
そっちの方が面白いし。なんて気持ちは影すら見せず。
「それにしても、一目惚れねえ。どこにそんなに入れ込んじゃったの? 他意はないけれど、うちの大学なら他にも可愛い子なんて沢山いるじゃない」
これは本音だった。あの女学生に対して、この坂本という一人の男子学生がこうも突き動かされる原動力が何であるのか、単に気になったのだ。
「駅から学校まで向かう道を、歩いていたんです」
坂本が学校へと向かう学生の流れに巻かれ、その短い道程を歩く最中その少しだけ先で。向かい来る金髪の青年が、街路樹の根元に空き缶を置き捨てた。特別気に掛けることもなかった坂本だったが、彼の数メートル前を歩いていた女の子が突如立ち止まり、その缶を拾い上げたらしい。彼女はその金髪の青年を呼び止めるでもなく、鞄からビニール袋を取り出すと空き缶をしまい、キャンパス内入り口すぐのゴミ箱に何事もなかったかのように捨てていった。その時にちらと見えた彼女の容姿に、今時健気な彼女の姿に、坂本の心は見事に落つる向きと相成った。
然もその彼女は、坂本が意図して尾行ていたわけでもなく、自分の進む先をゆき、偶然にも自分と同じ教室に入り、同じ講義を受けると見えたからにはもう自制出来ず。そうしてこうして、奇しな告白の切っ掛けが生まれたというのが、あらましである。……ということを坂本は酷く冗長に、彼の思う情緒の盛り合わせを、一度衣を付けて揚げ、出来上がったものに更に衣を付けて揚げして。そうして出来た完成品を食べさせられた私は、途方もない胃もたれを感じるが宜しく、ただただ聴いていたのだった。
「というわけなんですよ。どうです……えっと、あれ? お名前伺いましたっけ?」
「……随分とお話に一生懸命だったご様子で。文よ。文学の文で、アヤ。仏文科の三年です。どうも初めまして、坂本勢一くん」
「あっ、いえ、すみません」
端が削れただけのショートケーキと、シブーストの残り香だけが残された銀紙。善くもそんな一息に話し続けられるものだなと、ケーキに向けた私の視線に気付いたらしい坂本は、
「……ほ、欲しいですか?」
恐る恐る、尋ねてきた。嫌なら訊かなければいいのにという顔になりそうだったが、今回はきっとファンデーションとオレンジのチークが隠してくれた。はず。
「い……」
「いっ、苺だけは勘弁して下さい」
いや、そうじゃなくて。
「取り敢えず、経緯は解ったわ。それで?」
坂本は言葉を紡ごうとして、止めてを繰り返し、段々と表情が暗くなってきた。凛とした第一印象とは裏腹に、感情豊かな振る舞いをする人間らしく、見ていて飽きない。漸くもって、次に出てきた言葉は、ため息に割られていた。
「……文さん、どうしましょう」
「何、今度はどうしたのよ」
「冷静に考えたら、僕って振られたんですよね。何だか今更落ち込んできました」
冷静に考えなくても振られているだろうなどと追い討ちをかけることは酷だと思い、
「ほら、でも来週も告白するって言ったんだからさ。二度目で気が変わるかも知れないじゃない?」
慰めてあげる優しい私。
「……同情ならよして下さい」
と、そんな気も知らない呑気な坂本。全く、面倒な奴だ。
「まあ、任せなさいよ」
口をついて出たその無責任な一言は、坂本にとっての何かしらの拠り所となって了ったらしく、くるりくるりと表情の慌しいことに、屈託の無い色へと変わった。
「ありがとうございます!」
当然根拠も何もないのだから、こうなっては私も収まりが悪い。が、言い出した手前、後にも引けず。
「こっちには乙女心を理解したサポーターがいるんだから、き、きっと上手くいくわよ」
「そ、そうですよね。ああ、僕は一体何を気に病んでいたんでしょうね。大船に、豪華客船に乗った積もりでいればいいんですよね!」
そう言うと彼は、世界で最も有名な豪華客船のテーマを鼻歌交じりに苺をぱくり。坂本くん、このままだとその船は氷山に衝突して、沈んで了う。
「それでは文さん、本題に入りましょう。一体全体、僕は何を言えばいいと思いますか?」
そう言って私のことを見つめる坂本は、眼をキラキラとさせていた。弟がいればこんな感じなのかしらと可愛く思えて笑みは浮かぶも、肝心の策は何一つ浮かばず。勝算のない戦を前にした軍師の気持ちに、想いを馳せるのが関の山といった具合である。
「ど、どうかしらね。……でも、私の言葉を使っても仕方がないし、君が何を言いたいのかが問題じゃないかな。告白はやっぱり当人の気持ちが一番大事だし」
当然、何も思い付かないとは口が裂けても言えないが故の、体のいいはぐらかしである。我ながら、都合の良い言葉がぽんぽんと口をつくものだ、と思うと少し哀しくなった。後から思い返してみると、きっとこの時の私の視線は、マイケル・フェルプス宜しくダイナミックに泳いでいたに違いない。
幸いにして、坂本には行動心理学的な素養が露程もなかったらしく、
「ああ、文さんに後光が差して見えます。やっぱり年上の女性って頼りになりますね。相談して良かった」
と、敬い始める始末。単純……もとい素直な奴だ。何だか自分の不純さが露呈してゆくようで、切ない。
「実は僕、こう見えて女友達なんかも全然いなくて、相談する相手にも心当たりがなくて。もう本当に、何て言うか、文さんが女神に見えます」
果たして坂本は、自分のことをどう見えると思っているのかという議題はさて置き。女神とまで言われては私も悪い気はしない。少し真面目に考えてみようかしらと思った矢先、
「ええと、言いたいこと……ですか。そうだ、彼女に関する数少ない情報の一つである、文学部ということも鑑みまして、文学部らしくゲーテでも朗読すればバシッと決まりますかね」
「うん、ちょっと待って」
こんな事を至極真面目な顔をして言うものだから、私の中の真面目観も揺らぎに揺らぐ。そうだった、こいつは放っておけば、講義中に教壇から不特定多数を前に告白をやってのけるような奴なのだ。少しでも普通を期待した私が馬鹿だった。
「君の思う文学部らしさは一体どうなってるの……朗読って、」
「僕、二外中国語だったんで、ドイツ語解らないんですけど、やっぱり原語の方がいいですかね? そうと決まれば、時間もないですし勉強しなきゃですね!」
「うん、待って、待って。私がいる限り、そうとは決まらないもとい、決めさせないからね。一回朗読から離れよっか。そもそも、それは君の言葉じゃなくて、ゲーテの言葉でしょう?」
「あっ、そっか……そうですよね」
終ぞ静かになった坂本。焦って喋らされた為に喉が渇いた私は、レモンティーのボトルに口をつける。坂本はというと、何を言ったら良いのかについて考えているのか、眼鏡を外し、目を閉じ、腕組みをしたまま唸っている。
少しだけ、どきっとした。端整な目鼻立ちに降りた、長い睫毛。目を瞑ったその表情がとても綺麗で、私は思わず見惚れて了っていた。告白の内容について考えなければならないのに、私の思考は止まったまま。暫くの間、動いていなかった。絵画を観ている時みたいだ。と、この時の私は何となく思っていた気がする。本能に触れるような綺麗なものは、観ている者の思考を止めて了う。
「文さん、文さん」
不意にその絵画が目を開き、話し始めた為に私は現実に引き戻された。
「な、何?」
「困りました。自作の愛の詩を作るのは、僕には少し難しいみたいです」
神様、神様。困りました。この子の思考に付いてゆくのは、私には少し難しいみたいです。