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第一回 アアラ怪しの優男の挙動

 千早振る神無月ももはや跡二日の余波となッた二十八日の午後三時頃に、

「ごめんなさい」

 非情な返答が、大教室に響いた。当の本人の顔を見遣ると、絶望に打ち拉がれるでもなく、かと言って何の恥ずかしさを感じているような素振りもなく、ただ真っ直ぐに量産型の女子大生、非情な返答をした彼女を見据え、

「来週、もう一度告白します」

 と言い残し、教授の前を突っ切り、外へと出て行った。

「あ、いや、あの、講義中なのだけれど……、これ来週もするのかい」

 禿げ上がった中年男性の当惑するの姿というものも、なかなかどうして面白いものではあるのだが、教室内はそれどころではなく。

「と、兎も角、今日は詩歌における花袋の……」


 同じ時刻の同じ電車、同じ車輌の同じ座席。私は今日も変わらない日々を変わらず過ごすことになる感覚を、少なくともこの時には、覚えていた。少し前までの私ならば、変化の無い日常とやらに悲嘆し、何やら愚痴していたに違いないだろう。然し乍ら、現在の私にはそのようなどうにもならない事実に対して思い悩むようなバイタリティも無ければ、生来野心といった正のエネルギーの類を持ち合わせてもいない。持て余した情的な何かは専ら映画を見ることで消費していたし、この変わり映えのしない日常に幾らかの愛情すらも感じている、ような気になっていた。

 そんな私のささやかなる幸福な日常が、訳の解らない奇しな物語となってしまった発端に当たるのが、この『日本文学史ゲリラ告白事件』である。尤も、私が勝手にそう呼んでいるだけであって、特に一般化された名称という訳ではない。

 健全な大学生諸氏にとって、実は一番遅刻し易いのではないか。と、私の中で専ら話題の木曜日の四限目。四号館の四階、大教室で行われる日本文学史の講義は、成績の九割が出席点という、市販薬宜しく半分が優しさで出来ているようなものだ。そうとなれば怠惰な学生らが集まるのも当然の運びであって、私も教授の声に含まれたα波に甘え、講義に出るというよりは寧ろ、華胥の国に遊びに出る心持ちで通っていた。私はいつも通りに五分遅れて教室に入り、前列二番目の左端から二番目に。一番端に座る縁無し眼鏡の優男に頭を下げ、一度立ち上がってもらってから席に着いた。

 一部の学生から菩薩と称される、禿げ上がりながらも愛嬌を湛えたゆるキャラのような件の教授は、講義も酷く優しく丁寧なものであり、始業後暫くの雑談の合間にさえも逐一、質問などありませんか。と静かな声で宣うからには、菩薩という呼び方にも合点がいく。大抵の場合、誰も何も言わないということは想像に難くないことだろうが、今日に限っては違っていた。

「はい」

 という声がやたらと耳に通って聞こえたのは、その凜として金属質な、高い声色の為というのも勿論あるだろう。が、これは偏に、私の隣に座る優男が発したが為だった。はい、そこの君と声をかけられた彼は立ち上がり、さも当然のことであるかのように、教壇までつかつかと歩いてゆく。困惑する教授を失礼の一言で押し退け、マイクにずいと顔を近づけ口を開いた。

「ええと、英文科二年の坂本勢一です。そこの、長い黒髪をした、あ、今目が合った貴女です。……そう、今自分を指差していた、青と白の、ええ、貴女です。単刀直入に言います。一目惚れをしました。もし良ければ、僕とお付き合いして下さい。お願いします」


 一人の男子学生の、わお、という声を除いて、教室は意外にも静まり返っていた。返答を期待してというわけではなく、単に皆、状況が飲み込めていなかっただけだと言った方が正しくこの場を表しているかも知れない。少なくとも私はそうだった。

 不運な当事者となってしまった彼女、後列右側の窓脇に座るその女子学生の方を見遣ると、可愛らしくはあれど、一目惚れをする程の美少女と形容するには些か普通過ぎるというか、地方出の子が頑張って背伸びをしているように見えるというか、多少芋っぽい、極めて普通の子だった。ただ、こんな意味不明の状況にも関わらず、真剣な表情で真摯に向き合わんとしている様子には好感が持てる。それから彼女が口を開くまで稍あって。


「ごめんなさい」

 非情な返答が、大教室に響いた。当の本人の顔を見遣ると、絶望に打ち拉がれるでもなく、かと言って何の恥ずかしさを感じているような素振りもなく、ただ真っ直ぐに量産型の女子大生、非情な返答をした彼女を見据え、

「来週、もう一度告白します」

 と言い残し、教授の前を突っ切り、外へと出て行った。

「あ、いや、あの、講義中なのだけれど……、これ来週もするのかい」

 禿げ上がった中年男性の当惑するの姿というものも、なかなかどうして面白いものではあるのだが、教室内はそれどころではなく。

「と、兎も角、今日は詩歌における花袋の……」


 と。これで終われば、まだ私の変わらない日々。日常の非日常。ありふれた日々のちょっとした刺激。話の種、与太話、語り草。ただそれで終わるはずだった。そう、あの間抜けが鞄ごと荷物を忘れて行ったりなどしなければ。そして、私がふと荷物を渡してあげようなどと思わなければ。今思い返しても、何故そんな気紛れを起こしたのか、はっきりとは解らない。けれど。少なくとも何らかの好奇心と、その非日常に対する興味が私を突き動かしたのは事実だった。勿論、私が優しさに満ち溢れた善良な学生であるから、というのも理由の一つであるのは言うまでもないが。

 騒ついた教室内。件の優男の鞄を持って出て行く私に注意を払う人間は、そういなかったように思う。何となくまた教室に戻る気もしなくて、私は自分の荷物も纏めて外に出た。

 授業中の廊下を通り抜け、小走りに階段を降る。近頃この四階までの階段の昇り降りに際して息が切れるという事実に運動不足を痛感しているというのはまた別の話なのだが、見つからなかったらどうしよう、学生課にでも届ければいいのかしらといった心配もあって、心拍を逸らせていた私を余所に。一番下まで降りたところ、入り口傍の長椅子に、彼はばつが悪そうに腰掛けていた。流石に降りてきた私には気付いたようだったが、純真清らかな私の厚意には全く気付く様子もなく、

「あっ、さっき遅刻してきた人……、えっと、あ、奇遇ですね。僕も同じ鞄を持っているんですよ」

 などと変わらず気まずそうに素っ惚けるので、張り倒してやろうかと思った。

「これ、君の鞄」

 と差し出しては漸く状況が飲み込めたようで、目を丸くすると直ぐに顔を綻ばせる。

「えっ、ありがとうございます。どうしたものか悩んでいたんですよ。戻るに戻れなくて、いや、本当に助かった。でも、どうして」

 自分でもどうしてだかよく解らなかった私は、口を突くままに、

「と……隣だったから」

 と、これまたよく解らない回答をしてしまう。 彼は少しきょとんとした表情を浮かべていたが、直ぐに何かに思い至ったような顔付きへと変わり、

「兎も角、ありがとうございます。僕は坂本と言います。これも何かの縁ですし、お礼にお茶でも奢らせて下さい」

 屈託のない笑みを湛えた彼は、私の返答を待つ様子もなく、そのまま出入り口の扉へと進み、

「あ、学食でいいですか?」

 と言って、扉を開いた。

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