表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

何も変わりはしないけど

作者: 河波 悠

人って、疲れとか悲しみとか失望とか、そんなものを、皆だましだまし生きてるんじゃないかなーという話。


仕事一筋記者のお姉さんと、年下(一歳だけど)不思議系男子の一応は…恋愛モノになるのでしょうか。

個人的には、年下男子の方が色々やらかして抱えていたりする設定ですが、それはまた別の話で。

 詰所に戻ってきたのは、日が高く昇ってから。昨日から殆ど徹夜で担当する事件を追いかけていたので、もう身体はくたくたである。

「戻りましたー」

「お疲れさまでーす」

 後輩からの声が飛んだ。上司は席を外しているらしい。

 ようやっと秋の声が聞こえる今日この頃は、まだまだ日差しは強い。汗が流れるようなことは流石に少なくなったが、首筋や手を焼く日の光は、あいも変わらず強烈で、素肌に突き刺さるようだ。この夏の間に、すっかりと日に焼けてしまった。流石にマリンスポーツが趣味の同僚ほどではないが、一応お肌の曲がり角を越えた身としては、気になるところではある。

「先輩、この後どうされます?」

「三時から約束あるから、仮眠取って行く」

「ひえー、過酷ですね」

 声をかけて来た後輩、佐倉は、表情をコロコロと変えながら漫画染みたリアクションをしてきた。後輩とは二歳しか変わらないはずなのだが、自分よりも大分、子供っぽく見えるのは不思議だ。

「先約はそっちだからね。長い付き合いだし、ドタキャンはしたくない」

「あ、あの方ですか」

「うん」

「それは、そうですねぇ……行かにゃならんですよね。はー、先輩ってば、あっちの事になると本当に熱心ですよね。休みだろうが飛んでいくし、遅くまで話聞きに行くし、朝早くだって要望があれば行くし……。趣味とか持った方が良いです、絶対。仕事ばっかりじゃつまんないし、人生ハリないし、体壊しますよぅ」

 ふうとため息をついて、佐倉は冗談半分本気半分といった体だ。私は軽くいなす事にして、生返事をした。

「心がこもってない返事だなぁ、今度一緒に追いかけ行きません?」

「行かない」

「えー?」

「そんじゃ寝るから。佐倉、これから出る?」

「いえ、今日は纏め作業です」

「それじゃあ、寝坊しそうだったら起こして」

「危なそうだったら起こしますよ」

「よろしくー」

 ひらひらと手を振って、仮眠室に向かう。

 新人の頃は、自宅以外で熟睡するなんて考えられなかったが、慣れとは大層恐ろしいもので、今では仮眠室での寝つきも格段に良くなったし、思い切り深く眠れるようになってしまった。全く、これはどうとらえたらいいものなのやら、少しばかり空しくもある。

 案の定、約束の頃合いに起こしに来た佐倉は、とんでもない爆睡っぷりでちょいと困りましたと、からかって来る。彼女を軽く小突いて、私は化粧を素早く直し、玄関口へと向かった。

 ふと、見覚えのある長身の男を見つける。

「象潟君、久しぶり」

「あ、お疲れ様です。これから取材ですか?」

「まあね。また特ダネ?」

「特ダネというほどのものではありませんが……まぁ、そうですね。ブンヤさんはそこそこ好きそうな感じのネタかな」

 眉を下げて象潟君は笑う。何とも人の良さそうな笑顔だ。年齢としては、佐倉と私の丁度間の歳になる。

 彼はフリーのジャーナリストをやっているが、やれ殺人現場だ失踪中の○○を見つけただ、テロ事件を未然に防いでみただと、とんでもない武勇伝を数多く持っている。何というか、「そういうもの」にでも好かれるんだろうか。佐倉がお祓いに行けと進めた時には、親戚が神主なので間に合いまくってますねと笑っていた。

 一度、どんなルートで情報を手に入れているのかと聞いたら、実は予知能力者なんですと、冗談とも真面目ともつかない顔で言われた。

 彼に関してはもう一つ、ある意味それ以上に解せない所がある。

「スクープ取ってきた割には、晴れ晴れとした顔してるわね」

「あはは、僕だってそういう時くらいありますよ」

「と、いうか、それが普通のはずなんだけどね」

「ですね」

 重大事件のスクープを取ってきた後の彼は、憔悴しているか落ち込んでいるかであることが多いのだ。時々探偵小説の主人公で、事件を解決した後憔悴して、ふらっと旅に出てしまうようなのがいるが、彼もその類なのだろうか。小説の中でその探偵の知人は、人の心の闇に触れて疲れてしまうと言っていたような気がする。

 だとすれば彼は、この魑魅魍魎百鬼夜行な報道界の中では、もう絶滅危惧種。真っ白過ぎるほどピュアだ。

「今回は、珍しく大団円だったので」

「へー、それでねぇ……君って優しすぎるんでない? 子供が大きくなったみたい」

「よく言われます。図体は大きいんですけどね。さて……」

 柔らかく笑って、象潟君は話題を切った。

「松橋さんはこれから取材ですか?」

「そうだね」

「雨降りそうですから、傘は持っていた方が良いですよ」

「晴れてるよ、外」

「念のため」

 こちらが答える前に、象潟君は編集部の奥に向かって歩き出していた。私は傘立てに刺さっている共用の傘を掴んで外へ出て、五分と持たず雨が降ってきたことに、とりあえず驚いた。


 すっかり定番になった駅前のカフェに、今日も彼女はいた。かれこれもうどれくらいの付き合いになるだろうか。すっかりと定期的に会う事が習慣になってしまった。

「尾藤さん、お待たせ」

「久しぶりです、松橋さん」

 親しく話してはいるが、彼女と私は友人同士ではない。どちらかといえば、取材対象と取材者と言う立場だ。

 初めて彼女と会ったのは、当然仕事の場。私がこの部署にやって来て、殆ど初めての大きな傷害事件だった。内容は有り体に言えば、いじめによる被害。当時はまだその結論すら出ず、警察も事実の確認に奔走していた時であったが、被害者本人の尾藤さんの心もちを考えると、報道者としての立場が揺らいだ。犯人たちを本気で社会的に抹殺してやりたくもなったし、詳しい内容が発覚するたびに、顔写真を晒してやりたい衝動にかられた。何より、自ら経験を告白する尾藤さんの勇気と、そこに復讐心からくる攻撃性が感じられない事に驚倒して、素直に尊敬した。

 色々と紆余曲折があったが、最終的には社内的にも世間からも、何より尾藤さん自身からも評価を得る、良い記事を書くことが出来た。報道の仕事について暫く経つけれど、初めて自分の記事が必要にされたような気がした。あの記事をきっかけに私は、この手の事件の被害者会や、その後のケアなどについても時折取材に行くようになったので、そう言った意味で彼女は、私の原点だ。

「最近はどうですか?」

「会の方は順調です。皆、松橋さんの本に期待してますよ」

「重圧だなぁ……」

 今現在、私は一冊の本の発行を手助けしている。尾藤さんの主催する被害者会の本だ。

 彼女の主催する被害者会には、いじめで身内を殺されてしまった人もいれば、家族を心の病気にされてしまった人、普通に生活はできているが、ふとした拍子にフラシュバックする人、そして彼女のように、自分自身が被害者であったと言う人、あらゆるいじめ事件に巻き込まれた人が集う。事件に大小はなく、辛いことがあればどんなことでも共有すればいいと言うのが、彼女のスタンスなのだ。

 そんな彼らと話をしていて私が思うのは、この国の人々はどうも「殺されなきゃ別にいいだろ」というような事件観を、総じて持っているのではないか、ということだ。

 そんな話を彼女としていた折に、持ち上がったのが今回の企画だった。勿論有志だけではあるが、経験者のそのままの声を、世間に届けようというのである。世間の見方に警鐘を鳴らす面もあるが、その反面で、今現在渦中にある人に対しても、彼らの言葉は向けられている。先日出版予定が、来年の八月に決まった。

「思えば、長い付き合いですよね、松橋さんとは」

 ふと改まって、尾藤さんが呟いた。

「かれこれ私が入社してからになりますから、もう五年以上です」

「長かったような、短かったような気がします」

 ふうと息を吐いて、彼女は遠くの方を見た。疲れているのだろうか、と思った。いつもはまるで、先陣を切って敵陣に切り込むような、力強い覇気を持っている人なのに。何だか今は少しだけ、丸くなったと言えば語弊があるが、気が抜けたようなそんな顔をしている。しかし、

「松橋さん、一つ、ご報告があるんです」

 すっと戻ってきた目線には、静かな芯の強さがあった。心のどこかがざわざわと波を立てているが、迫力に圧し潰されて黙ってしまう。

「この本が出る前に、私は一度活動を辞めるつもりでいます」


 詰所に戻るともう日は落ちて、すっかりと夜になっていた。誰もいない事務所はとても空虚に見えて、急に気が抜けてしまう。

 もう、かれこれ何年追いかけていただろう。甘いことを言うと思ってはいるけれど、やっぱり、虚しさを感じざるを得ない。

 初めて、記事で人を助ける、人の力になると言う事はこういう事なんだと思った気がした。彼女の事だって、とても大切に思っていた。もう、記者と取材対象の垣根を越えて、戦友とか盟友とか、そんな風に思っていた。

 それなのに、あまりにもあっけない。

 私の数年間は、結局一言で、終わってしまったのだ。

「まさか、こんな結末だとは」

 思わず口を突いた独り言。だって聞いてくれる相手もいないし。

 あの後彼女の口からは、結婚の報告。そして、私でなければあそこまでの事は話せなかったと言う事、他の人に取材されるのとは違う、私でなければダメだったのだと言う事がつらつらと紡ぎ出された。そこには嘘らしさや誇張のようなものもなく、純粋な感情で彼女がものを言っていると言う事が、素直に受け止められた。

 最後には、落ち着いたら連絡をするから、迷惑でなければ、結婚式には来てほしいとの旨。そして、謝罪の言葉があった。きっと、色々なものに対しての、色々な感情の詰まった、苦しい苦しい言葉が。

 模範解答としては、ここで感動すべきなのだろう。彼女の居ない出版になるのは悔しいし悲しいけども、それ以上にここまで認めて貰えて、思ってもらえて嬉しいと、嬉し涙を流すべきなのだろう。だって、たかが一記者が、一人の人生を変える手伝いをする事が出来たのだ。喜ぶべきことで、誇るべきことだろう。だって、あんなことがあって、あんな風に傷ついて、心を閉ざしていた彼女が、こんな風に、他の人間を信じて、家庭を築けるようになったのだから、凄いことなのだ、きっと。

 でも、それが何なんだ。

 私の思いやりも、気遣いも、打算で出ていたわけではない。でも、

 結構尽くしていたんだけどな、と、思った。

 私って何だったんだろう、と、思った。

 そして、犠牲のつもりだったのか、と自分の本音に気づいて、凄く自分を、汚いと思った。

 身勝手で虫唾が走ることはわかってる。私の中に打算があったんだと言う事も、今まさにむざむざと見せつけられている。けど、そう思う事を止められないし、綺麗に祝福なんてできない。


 私だって。


 ああ言っては貰ったが、彼女が立ち直ったのは、私だけの力では勿論ない。私の知らない所へ行って、知らないものを見て、知らない人に出会った結果なのだ。当然のことながら、彼女には私以外の、とても広い広い世界がある。私の知らない、優しい暖かい世界があるのだ。その証拠に、会の人たちは彼女の結婚と引退をもう知っているようだったじゃないか。報告を受けていなかったのは、私だけじゃないか。

それもそうだろう。彼女は私と違う人生を送って来て、これから先だって別の道を歩んでいて、一緒に居る期間なんて短くて、本当に欠片みたいなもので。そんなので他人の事がわかった気になっているだなんて、滑稽で、つまらなくて、気持ち悪い。

 それが何とも、堪らなかった。

 それでも、涙は一向に出ては来なかったし、心の痛みだって心臓の動悸だって、後悔すらちっとも感じない。唯一あるとすれば、冷めかけのお湯くらいの温度の怒りくらいで、それ以外は静かなもの。これだけの事を思っていても、感情の線はさっぱり動かなくて、空の感情ばかり募る。

 もうかれこれ何年泣いていないんだろうか。

 しょうがない、泣こうと思ったって泣けないんだもの。

 泣けたら楽なんだろうか。泣いても何も変わりはしないのに。絞り出すように涙を流したって、何になると言うんだ。疲れるだけで、すっきりも何も、不完全燃焼だ。鼻水が邪魔なだけ。

 あー、と、低く溜息をつくように、声を漏らした。少しだけ、張り詰めたような何かが緩んだ気がしたけれど、何の慰めにもならない。

「似合いだ。私には」

 ぼそりと呟いた一言に、その通りだと自分で納得した。

 酷く胸の奥がスースーする。力を入れても穴あきバケツのように、身体のどこかからエネルギーが漏れ出しているような気がする。身体が重くて、何だかとても、疲れた。

 早く帰って寝てしまおう。余計な事を考えるだけ無駄だ。


 翌日は休みだったけれど、私はいつもの癖で休日出勤。家にいると色々と、考えてしまって良くない。一日、不自然なくらいにてきぱきと仕事を片付けて、その割に外へは出ず社内でできる仕事ばかりしていた。佐倉には大丈夫かと二三回声をかけられたし、上司にも珍しく、疲れた顔をしている、本来休みなのだから、振替をするかせめて早く帰れと心配された。

 それでも会社に居残り、気づけば六時を過ぎている。同僚は相変わらず取材で事務所に居ないし、上司は会議。事務さんは定時で帰ったので、結局は一人きりになってしまった。そろそろ流石に帰途に着こうかと思っていた矢先に、ノックの音がした。

「どうぞ」

「こんにちは……あ、皆さん外ですか」

「うん。編集長は会議」

「タイミングがアレでしたね、すみません」

「いいよ。どしたの?」

 昨日のスクープの件だろうか。それにしては、何だか少し落ち込んだような顔をしているが。また何かあったのだろうか。

「ちょっと原稿を纏めさせてもらっていいですか?」

「いいよ、空いてる机使って」

「はい」

 しんと静まり返った事務所に、淡々とキーボードの音が響く。小気味よく速いテンポで鳴ったかと思えば、ふと思い悩んで止まる。同じ部屋に人がいると何だか落ち着かないが、作業の許可を出した手前、誰かが戻るまでは離れられない。

 ついこの前までうだるような暑さだった夜は、すっかりと冷え込んで、寒い。身体が、外の熱に溶け込めないから、ますます追い詰められる気分になる。もう一枚着てくればよかった。椅子の背もたれにかけてあった、ひざ掛けを思い出したように引っ張り出して、マントのように肩から被った。

「寒くない?」

「僕は大丈夫ですが……寒いなら暖房つけましょう」

 別に大丈夫だという返答を待たずに、象潟君はさっさと暖房のスイッチを押してしまった。こういう所に遠慮はないらしい。乾いた風が充満して来て、肌に刺さる。ごおという独特の音が暫くは響いていたが、じきに耳が慣れたのか、とても静かになったように感じた。

「あのさぁ象潟君、変な話していい?」

「何でしょう?」

 ノートパソコンに向かい合っていた象潟君が、顔を上げてこっちを向いた気配がした。そうか、キーボードの音が聞こえなくなっていたから、静かだったのか。

「人は、こうして徐々に死んでいくのかな。何も感じなくなって心が動かなくなって、それで死んでいくのかな」

「え?」

 頓狂な声が返ってきた。あまりの想像通りの反応に、何だか失笑してしまう。

 だって昔は、もっともっと多感だった。すぐ泣いて、すぐ怒ってすぐに笑えた。ちょっとしたことで泣きだして引かれたり、自分でもよくわからない地雷があって苦労したり、色々したのに、今は何にも。

「もっともっと感受性が豊かだったのに。それが、結構な誇りだったんだよ。人には見えない世界を、見ている気がしてさ」

「ええと……だから、物書きになったんですね」

 ほら、言葉を選んでしまっている。あの切り出し方はないだろうと思いつつ、何故か止まらない。

「そうだね。まぁ、私には小説やエッセイの才能はなかったから、こうやって記者として働いてるんだけどさ。最近思うんだ、このまま、何も感じなくなっていくのかなって」

「何も?」

「楽しいとか、哀しいとか、そういう感情」

 燃えるような感情も、じっとしていられないようなやる気も、全部、どこか遠いことのような気がして。これって人間なんだろうかと、思って。何だか、どうでもよくなってしまったのだ。

「そんな事はないです、だってそれなら、あんな風に、人の心に寄り添う記事は書けない……」

「なんか疲れた」

 身体は机を向いたまま、遠くを見るように呟く。彼は傷ついたように一回息を呑んで、言いかけた言葉を呑み込んだ。

 私は彼じゃないし、彼もまた私ではないから、お互いに何かを言えども、結局、伝わるのは言葉が響いていないという事実だけ。

 わかるわけはないんだ。他人の心なんて。代わりに泣けるわけもなく、苦しむ事が出来るわけもなく。そんなことはもう嫌という程わかっているし、今更そんな子供じみた期待を持つつもりもない。とっくの昔に諦めたことだ。ほんとうに、とっくの昔に。他の人になんか期待しなくなっていた。

 それでもどうしてだろう、時々、こんな風に誰かに感情を思い切りぶつけたくなってしまうのは。

「私の相棒みたいな人が、引退するんだって。昨日初めて聞いた。幸せになるんだってさ、結婚して」

「おめでたい、ですね」

 間をあけて考えて、象潟君はそれだけ言った。

「おめでたいでしょ? おかしいよね。おめでたいのにさ」

 彼は事情を知らないんだからやめておけ、と、もう一人の自分が言っているけれど、その言い方がとても諦め調子だったから、私は続ける。

「自分に穴が開いたみたいになって、でも、これを埋められるものが無い。これが私の場所だったんだもの。私の、拠り所だったんだもの。一緒にやって来た彼女がいないとダメだって思うし、何で先に行っちゃうのかずるくも思う。私の場所なんて彼女の中にはもうないんだって思って」

 何言っているんだろう、私は。これじゃあまるで恋じゃないか。

「違うってわかってもいるんだけど、でも、この先誰と親しくなってもさ、私の居場所なんて、すぐなくなってしまうような気がして。虚しくて、期待するだけ無駄だって、空っぽになって、ただただ感情を希釈することに慣れてさ」

 ああそうか、私、彼女を、自分の半身みたいに思ってたんだ。

 だからこんなにも虚しいんだ。

「今夜、眠って目が覚めなければ、楽かなって」

 ごめん、と、流石に一言小さく言い添えて、もう黙る事にした。これ以上口を開いたら、顰蹙を買いこそすれ、他には何も生まれない。困らせるだけだし、引かれるだけだ。大の大人が言う事じゃない。こんなの、子供だ。

 電灯が、焼けたような音を出している。なんて、真っ直ぐですました光なんだろう。

「あの、僕が昔言われたことなんですけども」

 おずおずと様子を見ながら、象潟君が口を開いた。特に遮る理由もないので黙っていると、たっぷりを間をあけた後に、彼はまた喋りはじめた。

「人に対して落ち込んで、戻れなくなりそうになったら、考えるんです。今、ぎゅっとしてくれる人がいたらどうなんだろうって」

 顔を上げて、象潟君の顔を見ると、子供っぽくてすみませんと、何だか私よりも年上っぽいような苦笑顔で謝られた。何故だかこの人の、心の大きさと強さが、全然わからなくなった。

「涙が出たら、まだ死なないでください。死ぬなんて言うのは、それで泣けなくなった時にしてください」

「どうしてよ」

 何なんだろうこの人は。何だか鼻の奥が痛いし、頭がカッカしてきた。顔面筋は引っ張られて痛いし、血圧も上がってる気がする。

「そう思って泣くのは、まだ人間に期待をしているから、なんだそうです。だから、まだ死ぬのは早いんだそうで」

「何それ」

「僕にもよくわかりません。」

 はは、と、柔らかい声で笑いながら象潟君は言った。

「笑わないでよ」

「笑ってないです。安心したんです」

「こんなひどい顔してんのに? 好み歪み過ぎでしょ」

 タオルハンカチに顔をうずめるようにして、大きく深呼吸した。時計の秒針の音がやけに響くのを聞いていると、少しずつ落ち着いてくる。

「そういう事でもいいです。何だか、ほっとしたんです」

 ノートパソコンを静かにたたんで、象潟君は椅子の背もたれに沈みこんだ。古い椅子だから、ぎいと耳障りな音が鳴る。そんな事は気にせずに、彼は大きく伸びをした。そこでやっと私も、自分が猫背になって、頬杖をついた側に体重を預けて、固まっていることに気づいた。不格好な姿勢だ。

「ごめん、馬鹿な事ばかり言って」

「いえ、こちらこそ、お節介をすみません」

 姿勢を正して象潟君が謝るから、私も思わず向き直る。やっと初めて今日、まともに顔を合わせた気がする。

「僕昔、心関係で色々やらかしていたもので。何だか、話したくなってしまったんです」

「やってたんじゃなくて、やらかしてたんだ」

「ええ」

 彼は苦笑して、軽く左腕を上げた。それだけで彼の言いたい事は何となくわかったから、黙って頷く代わりにこう言った。

「いい言葉だね」

 久々に素直に、そう思った。

「そうですね。僕もそう思います。僕、割とネガティブが過ぎる性格なんですが、この言葉で生きてこられたのかなとも思います」

「生きてれば、死にたくなるでしょ。今生きてんだから」

「そうかもしれないですね。最強の贅沢です」

「でもさ、死んだら今度はまた、生きたくなんだろうね」

「そうでしょうね」

 結局何も解決はしていないし、事態も何も変わってはいないのに、心が軽くなったような気がするのは、何だか現金な気がする。同時に、人間なんて、こんな風にだましだまし、歳を重ねていくのかなとも、思った。

 時計を見たら、もう八時を回っている。とっくの昔に大人しくなったエアコンの音。

「あのね」

「はい。何でしょう」

「美味しいラーメンが食べたい」

「こんな時間に食べたら、太っちゃいますよ?」

「それでも」

「それじゃあ、駅前に行きましょうか。僕もお腹空きました」

「来てくれたお礼に、奢る」

「え? いいですよ。……偶然ですし」

「いいの」

「……味噌ラーメン好きなんですけど、いいです?」

「私も好き」

「良かった」

「じゃあ行こうよ」

「そうですね。ごちそうさまです」

「うん」



 おしまい


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ