九十八.
室に着いた嘉が翠を呼ぶと、さすがの彼女もその様に呆れ、目を丸くした。
「お前さん。そのナリで府を歩いて来たのかい?」
「ナリったって、そんなものかまいやしないさ。とにかく、蓮を休ませてくれ」
そうであったと頷いて、婆は躰を開いて奥を示した。
「それならあと少し、牀まで頼むよ」
導かれたその先で、嘉はそっと蓮を降ろした。
心配そうに覗き込む婆に、少年は大丈夫だと小さく笑ってみせる。
蓮はだいぶ落ち着いた様子だったが、顔色はまだ戻っていなかった。
ごめんなさい。
脣が、嘉へ告げた。
「何がだい?」
『蓮はわがままを言った』
「これしきの何がわがままだ。気にしすぎだよ」
冷たい汗の残る額を撫でる。
蒼褪めた白磁の肌は、すっかり冷えきっていた。
婆の用意した布を引き受けると、嘉はその額から首筋をそっと拭った。
『蓮は、操に心配掛けてばかりなの』
ぽろぽろと涙が零れる。
「……蓮。その気持ちは解るけど、蓮は主公の苦しみを一番に知りたいと思わないか? 主公も同じだと思うよ。誰よりも蓮の事を知り、一番に心配するのは主公の特権だ。それを奪ってはいけないよ」
穏やかな声音で彼が微笑んだ。
蓮はそれに頷きながら、次第に気持ちが落ち着いて行くのを感じた。
代わりに、とろりと眠気が差して来る。
安堵した事で力が一気に抜けていた。危機を脱した躰が休息を求めてもいた。
「少し眠りなさい」
囁くように言われ、蓮は素直に瞳を閉じる。
きっと、哥哥の言葉には、阿婆の煎じてくれる薬のような力があるのだ。
ちっとも苦くないから、こっちのほうがずうっと良いなと蓮は思った。
蓮が瞳を閉じるのを見届けると、眠りを妨げないように、嘉はそっと傍らを離れた。
「そうだ。蓮は着替えないとまずかったのかな。風邪を引かないと良いけど……」
隣室へ入るなり、彼は呟き振り返る。
「大丈夫だよ。婆に任せておいで。穏やかに眠らせてもらってありがたいよ」
「……翠さん。蓮はどこか悪いのかい?」
訊いて、嘉は首を振った。
「いや、やめよう。これは主公の特権だった」
少し肩を竦める嘉を、目を細めて婆が見上げる。
「ぬしは良い男よなあ」
「なんだよ、翠さん。今頃気が付いたのかい?」
「なんの。婆ももう百年若ければと思うたのさ」
冗談に冗談が返る。
「百年で利くのかい?」
驚いてみせる嘉に、ふんと婆が鼻を鳴らした。
「青っちょろいヒヨッコが何を言う。それこそ百年早いよ」
そんな婆に彼はハハと笑った。
そういうカラリとしたところが、少し操に似ていると婆は思う。
郭奉孝は気さくな男で、婆が初めて声を掛けた時も、回廊で呼び止めるような無作法であったにもかかわらず、気軽に応じた。
翠は操の信を得る者だが、しょせんは無位無官の老婆である。下手をすれば侮られるか、逆に媚びを売る者もあったが、彼はどちらでもなかった。
「俺は女性には優しいのさ」
丁寧な口調を崩し、破顔した。
「なんだ。恋文の附け届けとでも思うたか?」
婆の憎まれ口に嘉はうんうんと頷き、翠さん、それでいいよ。と笑った。
それ以来、婆は遠慮無しに言いたい事を言うし、彼も口調を崩して応じる。
――おそらく、こっちがこの男の本性なのだろうな。
ぞんざいな言葉使いに婆は思う。
どこかやんちゃ坊主の面影を残すところも、やはり操に似ていると婆は思った。