九十六.
「蓮。寒うはないか?」
頷く蓮の襟元を婆が整える。
「夜はまだまだ冷え込むよ。風邪でも引かせては、孟徳様に叱られるからな」
当事者にしか判らぬ、見事な牽制だった。
――婆には敵わんな。
惇はひとり苦笑に酒を含む。
阿婆。ごめんなさい。
蓮の脣が告げた。
「どうかしたかえ?」
何を謝っているのかと婆は思った。
『蓮はまたお酒を呑んだ』
ぽろりと、その瞳から涙が零れる。
「そうかそうか。解っておるのなら良い。だがな、あまり過ごしては躰に毒だからな」
こくりと肯きが返る。
「うんうん。今宵はもうこれくらいにおし。将軍の話は、また今度聞かせてもろうたが良い」
婆はそう言うと、瞳で惇を促した。
「そうだな。今度は傍らで孟徳がムセルような話をしてやろう」
その言葉に涙を残したまま蓮が笑う。
共に立とうとする婆を制し、彼の相手を願うと、蓮は中座の非礼を詫びて室を辞した。
「婆。孟徳はまさか夜離れじゃなかろうな?」
蓮がいなくなると、惇はそう婆に尋ねた。
「馬鹿をお言いでないよ。孟徳様はホンに蓮を大切にしておいでだよ」
「そうか。なら良いのだ。あんまり寂しそうだから、よもやと思うてな」
「あれは、ひとときでも孟徳様と離れるのが辛いのだ。三日も会わねば気もそぞろだよ」
「そんな事で戦の時は大丈夫なのか? 次の戦もそう遠くはないぞ」
「大丈夫なものか。婆は今から頭が痛いよ」
額に手を当てて、婆が溜め息をつく。
「かと言って、孟徳様をお留めするわけにも行くまい。蓮も良く解っている。だから何も言わぬのだが、それが却って哀れでな……」
婆はふと視線を上げ、惇を見据えた。
「元譲殿。決して孟徳様に言うてはならぬぞ。孟徳様は蓮が寂しがっているのも良う解っておいでだ。それはそれは、心を痛めておられるのだよ。それをお前様が敢えて言うたりしたら、婆が許さぬぞえ」
「解っているよ。孟徳には孟徳の立場があると言うのだろう?」
「夏侯元譲ともあろう方が、聞いたような事をお言いだよお。あのお方が、ご自身の立場なんぞで心を煩わすものかね。お前様こそ、良う解っておいでだろうに」
どっこらしょ。と声を添え、婆が立ち上がった。
「良い月よな。孟徳様も蓮の楽が聴きたかろう」
明け跳ねた扉から空を眺め、婆が呟く。
吹き込む夜は微かに春めいて、何かの花の香りをうっすらと運ぶようだった。