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三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
96/138

九十五.

 濮陽の戦いは、操の徐州攻略から端を発した。

 父親仇討ちに総員をかの地へ攻め込ませたその留守へ、当時、流浪の将となっていた呂布が兵を寄せたのだ。

 操の治めていた郡県は、ことごとく侵略者へとなびいた。

 辛うじて保っていたのは、本拠地(ケン)城と、東阿、范の二県。そして、東郡太守たる夏侯元譲の在った濮陽の城のみであった。

 留守を預かっていた荀文若は、共に鄄城を(まも)っていた程仲徳をその二県へと(おもむ)かせた。東阿は彼の郷里であり、黄巾の乱の際にはその地を護り抜いた実績もある。故地の揺るぎない信頼で二県を保つ一方、(イク)は惇との陽動を取った。    

 心臓部たる鄄城を護るために、敵の目を濮陽の地へと引き寄せたのである。

 軽装で城を出た夏侯惇は敵軍と遭遇し、捕らわれ人になったと魏書は伝える。実はこの時、主力部隊ははすでに(ケン)へと向かっていたのだ。

 部下の働きで敵中を脱した惇は鄄城へと入り、場内に残っていた叛乱(はんらん)分子を一掃。彧と共に城を護り抜き、主の戻りを待った。

 徐州から駆け戻った曹操は、鄄城が保っていた事と、街道を押さえられなかった事に安堵したと云う。

 最大の危機ではありながら、首はまだ繋がっていた。

 直ちに操は濮陽攻略へと取り掛かった。

 しかし、相手も相手である。容易な戦ではなかった。攻防は百日余りも続いた。


 心を許せる友であり、軍の要でもあった将が片眼を失い、操自身もまた、命にはかかわらないとはいえ傷を負った。

 親友と頼んだ陳留郡太守は呂布を引き入れ、腹心達も共に(そむ)いた。

 民衆大虐殺が天下を震撼させる前に、それはこうした形で操に影を落とし始めていた。

 さらに黒々と(いなご)が空を覆った。飢饉である。

 父を失い、信を失い、地を失い、さらに食糧難が操を襲った。

 さすがの彼も弱気になり、袁紹との提携を考えた。

 家族をその領地へ住まわせる。すなわち、人質を出す事を条件に、袁紹が援助を申し入れて来たのだ。彼にしてみれば、この機に曹操を自分の配下として、完全に取り込んで置きたかっただろう。

 操自身はそれを受け入れようとまで思いつめていたが、異論を唱えた者があった。

 程仲徳である。

 彼は例の如く、歯に衣着せぬ物言いで、袁紹ごときの下に立つなと君を叱咤(しった)した。

 操はこれにより、なんとかその難局を乗り切って行く。

 一年近くも続いた呂布との死闘を制し、州を奪還した曹操は、軍事拠点を許へと移し、帝を奉戴。

 今その身は、王朝の中心に在った。

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