九十四.
「孟徳は一見派手な男だが、普段あまり華美を好まないだろう」
こくりと蓮が頷く。
董卓のもとで身を飾っていた蓮の印象があったのか、最初のころこそ華やかな衣を仕立てて贈ってくれた操だが、彼自身はあまり贅を好まなかった。普段の装いも簡素だし、それほど衣服に気を配るほうではない。身の周り万事がそうで、その暮らし振りは意外と質素なのだ。
蓮が望めば与えるであろうが、もともと蓮にも物欲というものがあまりない。それに気付くと、彼は無駄な衣類を整える事もやめた。
この日の蓮の装いも、そんな操を倣うかのように極倹しいものだった。
「その孟徳が戦場では緋色の戦袍に甲冑を纏う。目の醒めるようなその華やかさは華美を好むからではない。自分に敵の目を引き付けるためさ」
蓮は、先日許へ凱旋して来たその姿を脳裏に描いた。
美々しい馬に乗った彼は、煌くように蓮には映った。
戦場でもあの姿はひときわ目立ち、味方は鼓舞し、天下は畏怖するのだ。
「あいつは常に戦場を駆け、自ら兵を率いる。俺は政の事は良く解らんが、ヤツがたいした男なのは俺でさえ判る。だが、孟徳の根は武人だな。あの気質は歳を取っても変わるまい。婆のようにな」
豪快な笑い声が響く。
「孟徳は戦が巧いが、意外に負けてもいるのだ。あいつの躰にはいくつか傷があるだろう?」
蓮が少し眉根を寄せて顎を引いた。
「御大将自ら突っ込んで行くからな。あいつに万が一何かあったらどうするんだと、こっちは気が気じゃないんだが、言っても聞かんのだ。もっとも、兵も少なく苦境に陥った事もあった」
惇は盃を取り上げると、一気にそれを流し込んだ。
「濮陽での戦がその中でも一、二を争う。郷士の内応で城内に入った我が軍は謀られてな。大混乱におちいって、一時は孟徳の姿さえ見失った。あいつは自力で脱出して来たが、胆が冷えたよ。孟徳の左手に火傷の痕があるだろう? その時のものだよ」
蓮はぞくりと総毛立ち、思わず自分の左手を押さえた。
「孟徳は自分も怪我を負っていたが、それを押して兵を労って廻った。ひどい戦で大将の姿を見失ったから、陣中は不安に満ちていたんだ。孟徳は俺達にとって、まさに支柱なのだよ」
惇はそこで一度口を閉ざし、空を見つめた。
「俺の左目も濮陽攻防で失った。くそ忙しい時に働けない己が不甲斐なくてな。孟徳はそんな俺を一喝した後、漢振りが上がったと言って笑ったよ。あいつはこれも、負け戦を招いた自分の責任だと思っているのさ。だけど、それで詫びれば俺が気に病む。そう思っているからあいつは何も言わないし、事ある毎に片目をからかう。本当は俺はこの傷が嫌いで、そう思う己の小ささも嫌いだ。気に病むような容姿じゃあ、ないはずなんだがな」
がははと笑うと、彼は心情をごまかすかのように何度も盃をあおった。
蓮はそんな惇を見つめていたが、やがて文字を刻んだ。
『触れても良いか?』
「ああ、かまわんが?」
了承に、そっと細い指が傷に触れた。
「恐ろしくないのか?」
尋ねる惇に首を振り、にこりと笑う。
包み込むように傷に触れ、瞳がそれを慈しんだ。
――愛らしいな。
そんな蓮を見ていると、さすがに心の揺れる思いだった。