九十三.
府の回廊を歩んでいた惇は、ふわりと心地良い風が吹いたような気がして庭へ視線を向けた。その先に、小さな影がある。
「蓮ではないか。ひとりでどうした。孟徳は一緒ではないのか?」
大きな庭石の上に腰を掛けたまま、蓮はすっと先を指した。
ああ、今宵は奥へ行ったのか……
良い月夜だから、蓮と琴でも鳴らしているかと訪ねたのだが、当てが外れてしまった。
先触れも出さずに無作法なのはこちらだからモンクも言えないが、寂しそうな蓮を置いて帰るのも心残りだった。
「良い酒が手に入ったからたまには馳走しようと訪ねたのだが、残念だな。仕方ない、あいつには分けてやるまい」
そう言って笑うと蓮に腕を伸ばす。
「蓮。たまには俺と一杯やらぬか」
降りておいで。と続けると、蓮はその腕に身を預けた。
「翠婆を呼んで来てくれ」
さすがに蓮とふたりきりとは行かぬので、供のひとりを呼びに遣る。
蓮が先に立って導いた室には、飲み差しの盃がぽつんと置かれていた。
独りで飲んでいたのか……
月明かりに影を落とす酒器が、哀れだった。
「おやおや、元譲の坊ちゃん。よう参られましたな」
「婆。少爷はないだろう」
入ってくるなりの言葉に、惇が苦笑を向けた。
嵩が養子に入るほど曹家と夏侯家は親密だから、婆も惇の事は良く知っている。だが、何もこの歳になってまで、彼をそう呼んでいるわけではない。そういう惇だから、操の留守に蓮と逢うのを特別に許してやると言っているだ。
婆とて操が不在な夜の、蓮のうち沈んだ様子には心が痛む。かといって、彼を引き留めるわけにも行かない。
蓮は何をどう思っているのか、それについてはいっさい触れる事はなかったが、寂寥はどうしようもない様子で、近頃では酒で憂さを晴らす事さえ覚えた。
「蓮。あまり過ごしてはならぬぞえ」
婆は小言ばかり言わねばならず、辛かったが、そうでもしなければ蓮の酒量は増えるばかりだ。
躰の心配が募った。
蓮は婆の言葉に素直に頷くと、酒器を取り上げ客人へそれを勧めた。
「婆もたまには一献どうだ」
「婆はお務めの中だよ」
惇の勧めを、婆がぎろりと跳ね除ける。
「まったく。翠婆は変わらぬな」
悪ガキ仲間だった惇は、操と共に婆に追われたものだが、この恐ろしい婆さんが、とにかく操第一の忠義者なのは良く知っていた。
『何かお話して』
蓮が惇に文字を示し、ねだる。
「うーん。話か。孟徳のように巧くはないからなあ」
惇は少し考える。
「俺は、戦場しか知らぬ武骨者だから、語れるのは陣中の事ばかりだぞ?」
それでも良いかと尋ねる惇に、蓮が頤を引く。
惇は手にしていた盃をあおると、ぼつぼつと語り始めた。




