九十二.
「まずは、我々の居る処だな」
示された許に蓮が頷く。
「主公の郷里は沛国譙県。そして雒陽がここ。解るか? どちらも許からは街道一本。主公がこの地へ拠点を置かれた理由は様々あるが、地の利によるところが大きい」
雒陽から東南へ街道を下ると許の地があり、そこからさらに東へ行くと譙。地方豪族である曹一族の本拠地となる。
「ちなみに吾はな、ここ東阿の出だ」
「誰も仲徳殿の郷里など訊いておりませんぞ」
「むむ?」
その様子にひとつ笑い、蓮は嘉を見上げた。
「奉孝か? 奉孝は陽翟だったな。この公達や文若殿は潁陰県。みな潁川の者だな」
都とも便が良く、複数の街道が交わる潁川は、文化の交流地点という事もあり、予てから賢者が多いと言われた土地である。ここ許県もまた、その潁川郡に属する。
蓮はそこからほど近い、かつての都を指差した。
「そうか。蓮は都の子だな」
この子が自ら語るのは珍しいと、周囲は妨げずに見守った。
蓮の白い指はそのまま長安を指し、弘濃、安邑を辿り、雒陽へ戻った。
そして、新都へと進む。
自分の辿った長い旅路をようやく飲み込んだのだろう。少年は、貌を上げるとにこりと笑った。
話を促すようなそれを受け、謀臣達は現在の勢力分布をひととおり説明してみせる。
東の徐州に呂布。
北の冀洲が袁紹。その奥、幽州は公孫瓚。
西南には張繍があり、その向うの荊州には劉表。
江東では孫策が勢力を伸ばしている――
操が蓮に話してくれた通りであるが、地図を前に説明を受けるとより解り易い。
じっとそれを見つめながら話に聞き入っていた蓮は、やがて穰を指さした。
「そうだ。主公が兵を進めようとしているのはこの地だ」
先の戦で張繍を滅ぼすまでは至らなかったが、それを討つのを諦めたわけではない。
再び君は兵を起こそうとしていた。
急ぐ理由がある。
最大の勢力を持つ袁紹が、公孫瓚への攻撃を進めていた。
彼らの争いは今に始まったことではないが、どうやら袁紹側に本腰を入れた気配が窺える。河北平定を目指すという事は、天下を狙う目論見有と見なければならない。
公孫瓚とてこの戦乱に一勢力を築いた男である。堀を巡らせ要害を築くかの地を攻め落とすには、それなりの時間と動力が必要となるだろう。
だが、北に憂いがなくなれば、袁紹の目は間違いなく許へと向けられる。
ただでさえ兵力に差があるのだ。袁紹とぶつかる前に、前後の敵を始末しておく必要があった。
許の東には猛将呂布が在る。軍神たるこの将と腰を据えて戦うには、張繍を叩いて置かなければならない。それは同時に、張繍と同盟を結ぶ劉表への牽制でもあった。
戦とは、こうして何手も先の事を考えて行うものなのか……
蓮は、彼らの話に驚きを隠せなかった。
「子供に、そう戦の話ばかりなさるのも……」
遠巻きにその遣り取りを眺めていた荀文若が、ためらいを見せながらも見かねた様子で口を挟んだ。
戦の話をするより先に、教えてやるべきことは山程あるはずだ。
彼のその気遣いは、至極まっとうである。
「子供、子供と言うが、蓮は冠を着けてもおかしくない歳だろう」
なあ? と同意を求められ、蓮は戸惑う。
「愛らしい稚児姿を主公が惜しんでおられるのさ」
笑う彼らに嘉はまずいなと思う。
蓮の元服には様々な問題が絡んで来る。一人前の大人として独り立ちするからには、それなりの生活基盤が用意されると考えられるからだ。
人相見が貧困と飢え苦しむと見立てた鄧通を案じ、銅山を与えた文帝。
愛する董賢を高位に据えただけでなく、死に際してその御璽まで託した哀帝。
そこまでの事をする君ではないのは誰もが解っていたが、それでもかなりの禄を与えるのではないか、あるいは然るべき位に就けるのではないかと、気に懸けている者も多かった。
寵愛も一時のきまぐれと、美童もトウが立てば捨てられるものだと高を括っている連中も、ある意味正念場とばかりにその成り行きを見守っている。
君もそれが解っているのだろう。人知れず思案を重ねている事も、嘉は察していた。
「蓮、何を見ている」
地図に視線を落とす傍らに、嘉が屈みこんだ。
蓮の指がそっとそれを示す。
「ああ、そこは海だよ」
驚いて、蓮が貌を上げた。
ここは?
ここも?
「うん。全部海だ」
『河は?』
刻まれた文字に、すっと彼の指が地図をなぞる。
安邑と雒陽の間にあるそれを、実際に蓮は船で渡った。
あの、広い広い河がこれで、海と謂うものはこれほど大きいのか……
その広大さに、蓮は気が遠のく思いだった。
海不厭深。
詩の一節に、海とは何かと操に尋ねた。
すると、河の水がどんどん流れて行くと海に注ぐのだと教えてくれた。
あんなにたくさんの水が流れても溢れないのかと不思議に思う蓮に、操はそれもそうだな。と笑った。
「海とは、幾筋もの河が注いでも溢れぬほど広大なものなのだ」
それを、巨大な水溜りくらいにしか思い描けなかった蓮は、想像の限界を超えて固まった。
そんな蓮を操は笑い、一緒に見に行こうと抱き締めてくれた。
そうか。あの河の果てには、こんなに広くて大きなものがあったのか……
ずっとその先に何があるのだろうと思っていた。叶うなら、いつか見てみたいと、まだ見ぬそれに思いを馳せ、そっと指先で地図の海を辿る。
「ううむ。ここはやはり呂布を破って徐州を獲るのが近道か。どうするよ、奉孝」
「は?」
腕を組む程仲徳の横で、荀公達もしきりに首を捻っては何やら思い巡らせていた。
嘉はその様子におかしくなって笑う。
蓮に海を見せてやりたい。その思いは、皆一緒のようだった。