九十一.
蓮は少しずつ郭嘉以外の臣達とも打ち解けて行き、時折その傍らで過ごすようになった。
居合せた者は競うように蓮の相手をし、なんだかんだと言葉を掛けては少年を可愛がった。
「五経を解くなら教えるぞ」
「それより論語が先では?」
「どちらでも良いが、師は選んだほうが良い」
「だから吾がと言っている。どうだ?」
蓮はにこにことその遣り取りを聞いている。
是でも否でもない様子に、大業な溜め息が返った。
「そうか。やはり奉孝が良いか。蓮は主公と一緒で奉孝贔屓だな」
「仲徳殿。そこで私を引き合いに出さないでくださいよ」
当て付けがましいそれにくすくすと笑いながら、嘉は手にしていた書簡を下僚へと差出した。
「今日はこれで良いよ」
最後のそれを見送って、彼らのもとへと座を移す。
「それに、蓮にはもっと立派な師がいるものね」
向けられた笑みに、にこりと少年が笑った。
「む……。主公が見ておられるのか。それは確かに吾でも分が悪い」
かつて自分が口にした言葉を返され、嘉は苦笑いを頬に浮かべた。
彼らの君は不思議な人物で、自分が誰よりも秀でているにもかかわらず、とにかく人材を集め、その意見を良く聞いた。
その上で最終決断は自らが下すのだが、反対の意見を述べた者が嫌厭されることもなく、仮に結果が思わしくなくても献策者を咎めない。
決断を下した以上は、責は自分にあるとの考えなのだ。
それは、人の上に立つ者として必要なことで、大いなる美点ではあろうが、才能に恵まれた苛烈な性格の人物が持ち合わせているのは、ある意味奇蹟に近い事ではなかろうか。
ただ、役に立たないとなれば、それこそ歯牙にも掛けない。そこら辺の割り切り方には冷酷ささえ漂う。完全な能力主義なのだ。
その君に重く用いられている面々は、それこそ煌星のような人物ばかりだった。
「でもね、蓮。こう見えてもこの人達は、たいした知恵者なのだよ。解らない事は、何でも教えてもらうといいよ」
「何やら引っ掛かる箇所もあるが……」
文句を言いながらも、少年の尊敬のまなざしは満更でも無い様子で、コホンと、小さく咳払いなどして見せる。
「ま、ま、そういうことだ。主公から何を習っている? 吾は尚書や春秋あたりが得意だが、もちろん他の書でもやぶさかではないぞ」
「まあまあ、仲徳殿」
今にも書簡を持ち出して来て積み上げかねないその様子に、周囲が笑った。
「それでは蓮殿も構えてしまいましょう」
穏やかな物言いで性急なそれを窘めると、彼は蓮に続けた。
「何も、勉学だけと堅苦しく思わなくて良いのですよ。私は他の皆様のように面白味のある男ではありませんが、それでもこのように歳は重ねております。何かお役に立てる事もあるでしょう」
にこりと笑って続けられたそれに、蓮は視線を上げた。
荀軍師と呼ばれるその人は、公式の場以外では荀尚書令の事を叔父上と呼ぶ。
同じ姓だから血縁があるのは蓮にも想像がついたが、どう見ても叔父上のほうが歳若なのだ。
「歳だけなら吾こそ負けぬぞ。それ、亀の甲より年の功だ。なんでも訊け」
「仲徳殿は十二分にオモシロ味のある方ですから、亀の甲まで持ちだされては、我々“若者”は立つ瀬がありませんな」
自称若者達は、そうだそうだと手を叩く。
「ふん。年寄りで結構。年寄りには孫の相手が似合いであろう。面倒な諸事雑事は若いモンに任かせて、吾はのんびり蓮と語らうことに致そう」
「相変わらず仲徳殿は……」
「口が減らぬか。我々謀臣は口で生きとるようなもんだ。口が減ってはおまんまも食えまい?」
苦笑さえ褒め言葉と胸を張り、蓮へもにやりと笑みを流す。
蓮には彼らの会話がおもしろい。
次から次へと出て来る言葉は、いったい何処から生まれて来るのかと、不思議にさえ思っていた。
『尚書とか春秋が得意になれば、蓮でも口が減らなくなる?』
そっと嘉へ尋ねる。
真剣な蓮のまなざしに、笑みが返った。
「まあ、生まれ持った性格ってのもあるしねえ」
くすくすと続ける。
「そうだね。でも、学ぶ事によって、なぜそう言うのかが解るようにはなるよ。論議で良く故事が引き合いに出されるだろう? ああいうのは、元を知らないと解らないもの。そんな事もどんどん訊いて、みんなに教えてもらえば良いんだよ」
本当にそんな事を訊いても良いのかと、蓮は思わず首を傾げた。
「……そうでしたか。蓮殿は遠慮しておられたか」
やわらかな声に視線を戻す。
「主公がああして公室にお連れになるのは、蓮殿が知っても問題ないとお考えだからでしょう。言ってマズイ事なら我々もそう言います。何でも訊いていただいてかまわないのですよ」
なんとなく、蓮はそれらの事に、触れてはいけないような気がしていた。
その気持ちを察してくれたのだろう。
優しい気配りに、蓮の心はゆるゆるとほぐれて行く。
蓮は指を伸ばすと、地図と文字を描いた。
会話の中でさまざまな地名が出て来るが、蓮には位置関係がさっぱり解らない。
いつか知りたいと思っていたそれを続けて綴ろうとしたのだが、彼らは半ば察した様子で、早くもどの地図が良いかと教材を選び始めていた。
あれが良い、こっちが見易いと言葉を交わし、選び抜かれたそれが、蓮の前に広げられた。