九十.
嘉は、ふたりの合奏を聴きながら、自分は果報者だと思った。
卓越した楽の技巧も、見事な詩歌も、君の良く通る声も、全てが秀でている上に奏者の息がぴたりと合っている。これだけのものを聴く機会は、そうは訪れないだろう。
「奉孝。そちも加われ」
一曲終えると君は笑ったが、嘉は慌てて首を振った。
このふたりの演奏を聴いて割り込める才など、自分にあるわけがない。
「奉孝は良い声をしているのに惜しいな」
そんな事を言われたのは初めてだったが、蓮もそう思っているらしく、傍らでにこにこと笑う。
蓮は彼の声が大好きだった。
「なんだ。蓮は孤の声が好きだと申したではないか」
少し不満そうな声にもまた、蓮はうんうんと頷く。
蓮は、操の声も大好きなのだ。
「……そなた、孤と奉孝とどちらが好きなのだ?」
そんな事を問う君に嘉は呆れる。
比べてどうするのだと思った。
それは、訊くだけ馬鹿らしいというものだ。
蓮もそう思ったのだろう。
ちょっと拗ねたような視線を投げると、すっと嘉にしなだれてみせる。
「蓮……」
操は哀しげな顔で名を呼んだきり、言葉が続かない。
どうやら、本気で衝撃を受けたらしい。
くすりと蓮はそんな操を笑い、腕を廻した。
「孤も蓮が一番だ」
抱き留め、頬を寄せるその様に、嘉は呆れて盃を取り上げた。
――やってられないよ。
当て付けられたようで、さすがにおもしろくない。
「蓮。奉孝が拗ねておるぞ」
「拗ねてなどおりません」
ぶすりと反論する嘉に君は声を上げて笑い、蓮はやわらかな笑みを零しながらその手を取った。
『あなたに敵う人などいない』
どういう意味なのかと視線を返す嘉に笑みを残すと、蓮はふたりに向かって礼を示した。
それから胸に手を当て、にこりと笑う。
心を込めて弾く。
そう言っているのだろうか。
弓を番えた蓮はひとつ息を整えると、それを引いた。
音色が変わった。
操は思った。
それは、彼でさえまだ聴かぬ、蓮の極意だった。
迸るような音の波に感情を揺さぶられ、嘉も思わず涙を零しそうになる。
息を詰めてそれを聴いていたふたりは、曲が終わると呪縛を解かれたように吐息をついた。
「……凄いな。焦がれるような情熱に身を切るようなせつなさ。片恋の曲か?」
操の言葉に、蓮の貌がぱっと輝いた。
まさに、その通りだったようだ。
「なぜ片恋の曲を選ぶ」
少し不思議に感じて尋ねると、蓮は両腕で彼らを示し、胸に手を当てた。
ふたりに片思いだと言うのだろうか?
意味が解らず彼らは視線を交わし、首を傾げる。
蓮はただ笑い、それ以上は何も言わなかった。