八十八.
そのままふたりは府へ戻り、またそこでの日々が始まった。
少し落ち着くと操は郭嘉を室へと召し、蓮と共に酒を酌み交わした。
「このような高価なものを……」
振舞われた葡萄酒に嘉は戸惑う。
遥かな地からもたらされるそれは、一斗を賄賂として献上した者に、一国が与えられたとの逸話があるほどの高級品である。
「これの好物でな」
操が笑う。
差し向けられた盃に少年は脣を寄せ、ためらいも見せずにこくりと飲み干した。
やはり蓮は贅に慣れていて、こういった目新しい物を好む傾向があった。伝わったばかりの石榴や無花果なども、与えると嬉んで食べる。
蓮からせがむわけではないのだが、その様が愛らしく、操もつい次を思ってしまう。
あまり贅を好まぬ操がこうなのだから、豪奢を持って知られた董卓などは、それこそ湯水のように金を使ったことだろう。
褒姒と思うかと尋ねられた際、その思いつめた様子に冗談に紛らせはしたが、正直、傾国の麗人というのはまさに存在するのだなと、蓮を見ていると思う。
「今日は祝いの酒だ。良いではないか」
細かい事を言うなと操が笑う。
それが問題なんだよなあ……
嘉は思った。
このたびの戦では張繍を叩きはしたものの、討ち滅ぼすまでは至らなかった。
にもかかわらず、祝いとはなんなのか。
この正月に軍師祭酒の役職が設けられ、嘉は正式にこれを任じられたのである。
あんまり身に余ることをされてもなあ……
ちょっと後ろめたくも思ってしまう。
それを口に出せばこの君のことだ。何が身に余ると笑うだろうが。
あれこれ気を廻していた嘉も、それを口に含んで思わず憂いを忘れる。
芳醇な香りと濃厚な風味は、水っぽいこの国の酒とは段違いであった。
「美味いであろう? 我が国の醸造技術は未熟だ。酒にはまだまだ改良の余地があるな」
異国の酒を味わいながらそんな事を考える君に、嘉はいまさらながらにさすがだと思う。
が、同時に笑いも漏れて、蓮と瞳を交わし笑いあった。
「なんだ?」
そんなふたりに操が問う。
くすくすと笑いを残したまま蓮は弓を取り、弦に番えた。
「相変わらず良い音ですね」
君のようにはそちらに明るくない嘉であるが、やはり蓮の楽には聴き惚れる。
「主公の琴も素晴らしいですが、これはまた格別ですな」
「ふふ。この音に敵わずとも、さすがに悔しうはないな」
しばらくふたりは音曲に聴き入り酒を楽しんでいたが、やがて操もそれを放し、琴を取り上げた。
「蓮、合わせよう。何が良い?」
尋ねる操に蓮の脣が応える。
「蓮は詩が好きだな」
蓮のそれに笑って了承を示すと、操は琴を掻き鳴らしながら歌い始めた。
對酒當歌 酒に対いて当に歌うべし
人生幾何 人生幾何ぞ
譬如朝露 譬えば朝露の如し
去日苦多 去る日の苦だ多し
慨當以慷 慨して当に以って慷すべし
幽思難忘 憂う思いは忘れ難し
何以解憂 何を以って憂いを解かん
唯有杜康 唯杜康有るのみだ
青青子衿 青青たる子が衿
悠悠我心 悠悠たり我が心
但爲君故 但君が為故に
沈吟至今 沈吟して今に至れり
呦呦鹿鳴 呦呦と鹿は鳴き
食野之苹 野の草を食む
我有嘉賓 我に嘉賓有らば
鼓瑟吹笙 瑟を鼓し笙を吹かん
明明如月 明明として月の如き
何時可掇 何れの時にか掇うべし
憂從中來 憂いは中より来たり
不可斷絶 断つすべもなし
越陌度阡 陌を越え阡を度り
枉用相存 枉げて用って相存す
契闊談讌 契闊談讌して
心念舊恩 心に旧恩を念う
月明星稀 月明らかに星稀に
鳥鵲南飛 鳥鵲南へ飛ぶ
繞樹三匝 樹を繞ること三匝
何枝可依 何れの枝に依るべきか
山不厭高 山は高きを厭わず
海不厭深 海は深きを厭わず
周公吐哺 周公は哺を吐きて
天下歸心 天下は心を帰したり