八十一.
「孤はまもなく戦に行く」
蓮を見つめながら操が告げた。
少し血の気の引いたまなざしで、小さく頷きが返る。
「うん。今後はお前にもきちんと告げよう。このたびの相手はあの張済の甥だ。解るな?」
再びこくりと華奢な顎が引かれた。
「奴自身はすでに死んだが、甥の張繍が軍を引き継いでこの許を窺っておる。今年の春に戦った相手だ。孤は己の過ちで、息子と族子、そして大事な部下を死なせた」
曹軍を前に相手は一度は降ったものの、結局操は手痛い反撃を受けた。
原因となったのは張済の未亡人だった。
彼女は夫の死によってその軍と共に甥に引き継がれたが、夫と同族の者と情を通じるのは不義となる。だが、縋る者がなくては生きて行く事の叶わぬ女の身では、それを跳ね除ける事が出来ない。
彼女は密かに操に通じ、窮状を述べた。
有り体に言えば、自分を囲ってくれと言われたのと同じ事である。美しい女であったため、操はほだされて閨中に入れてしまった。
それが全ての発端だった。
曹軍は降ったはずの張軍に不意を撃たれて数多の犠牲者を出し、操は丁と離縁にまで至ってしまった。
そっと、蓮が触れた。
「心配しているのか? 孤は何かと欠点の多い人間だが、同じ過ちは繰り返さぬ。必ずや、彼らの仇は討るよ」
案ずるなと操が笑う。
「良いか。楊奉と張済が死んだことは知ったな。胡才は仇討ちされ、李楽は病死。韓暹は楊奉が死んだ後逃亡していたが、すでに討ち取られた。郭汜も部下に討たれてこの世におらぬ。残る李傕には近々討伐の計画がある」
蓮は怖くなってしまったらしく、視線を伏せて震えていた。
「これらは全て天命だ。蓮には何のかかわりもない事だぞ」
操の力強い口調に、ようやく蓮はその蒼褪めた貌を上げた。
瞳に促され、小さく頷く。
「今、孤の最も身近にある敵が徐州の呂布だ。今度の戦はそのための布石でもある。こちらを片付けねば呂布と戦うのに不利が生じるからだ。張繍は劉表と結んでおり、少々やっかいでな。劉表の事はそなたは知らぬな。そのさらに南には孫策があり、北の冀州には袁紹が勢力を持つ。ヤツと孤は幼なじみなのだよ。その話は、おいおいにしような」
少し混乱している様子に、操はそっと蓮の頭を撫でる。
少年は話を反芻するようにひとつひとつ指を折っていたが、ふと、その視線が上がった。
『幼なじみとはなんだ?』
そう記し、小首を傾げる蓮に、ああそうかと思う。
「子供のころ、親しく過ごした友人の事だよ」
蓮にはそんな経験はなかったのかもしれない。
言うのではなかったと後悔するが、そういう思いが蓮を不安にさせるのだと思い直す。
「本初と孤は、花嫁泥棒までした仲なのだよ」
笑う操に蓮が小さく口を開いた。
「なんだ?」
『本初は知ってる。初めて操と遭った時に聞いた。袁紹と謂う男の字か?』
操は頷きながら、蓮の記憶力に舌を捲く。
言ったかもしれないが、さすがの操もそこまでの記憶はすでになかった。
この子は随分と端折って過去を語っていたが、実は細かい記憶がまだまだあるのだろう。
まあそれは、必要に応じて聞いて行こうと思った。
『そうか。あの時宮中に兵を入れたのが“冀州の袁紹”なのだな』
その賢い頭脳は思考を繋げ、頷く。
「そうだ。そして、当時禁裏の近衛をしていた袁術が火を放った。彼らは実の兄弟だが、本初が養子に行ったので従兄弟でもある」
『では、劉表もあの男と血族なのか?』
「鵺のことか」
操が笑う。
「奴等に血の繋がりはないだろう。世の中は、同姓というだけで、何かと親しみを感じるようだがな」
いずれ手を組むかもしれぬな。
応えながら操は思った。
その傍らで、蓮は何事かをじっと考え込んでいた。
「何を思っている。孤にも教えてくれぬか」
蓮はその呼び掛けに瞳を上げると、小さく微笑んだ。
『蓮の知っている人達は、皆どうしているのかと思った』
この乱世である。そこには生死の保証さえなかった。
『蓮は幸せだ』
すっと操の胸にもたれる。
あれだけ辛い思いをしながら、それでも幸せだと言う蓮がいじらしかった。
「まだまだだ。孤はこれから、もっともっと蓮を幸せにしてやるぞ」
抱き締めながら操は思う。
出来るだけ早く世の中を静め、全てを子供に譲って隠居しよう。
幸い、後を託せる有能な臣は数多揃っている。余生は蓮とのんびり詩歌に興じて過ごすのだ。
「出来るだけ早く戦から戻る。待っていてくれ」
これは、今回の戦に限っての言葉ではなかった。
全ての戦を出来るだけ早く終わらせる。
だから、それまで待っていよ。
蓮はその意味が解って、涙を零しながら頷いた。