七.
なぜ、彼が次の訪ないを言い置いて行ったのか、その意味が婆には痛いほど解った。
――とうとう決意なされたか。
目指す先には幾筋もの道がある。
いったい、どの道を選ばれるのか……
だが、最も厳しい道を選ぶのが、曹孟徳と謂う男であることを、婆は良く知っていた。
翌日、蓮の体調は随分と落ち着いたものだった。
沐浴を勧めると、少年は嬉しそうに湯と戯れた。
きらきらと煌る水滴に、ほんのりと色付いた白い肌が映ゆる。水面に一輪の花が咲くかの風情だった。
――ホンに美しい子よ。
婆でさえ、これほどの子供は見た事がない。
容色も然ることながら、内から醸し出される色香が常人のそれではない。少し見識のある者なら、ひとめで彼が閨中に咲く花である事を識るだろう。
久しぶりに髪を上げ、衣服を整えた蓮は、月の精のように美しかった。
臥せっていた名残で頬に陰りがあるが、それがまたひとつの風情として彩りを添えている。
さすがの婆も、その姿にひとつ吐息を零した。
今日と謂う日に気色悪からず。天の啓示かもしれぬ。
夕刻になっても容体の変わらぬ蓮に、人知れず婆は思うのだった。
「主公がお会いになりたいとの仰せです」
ふらりとやって来ると思った君から、先触れが遣わされた。
伺いを立てる遣いの者に、蓮は謹んで礼を返す。
庇護を受けている身である。少年に、君の訪問を拒む理由はなかった。
順を踏んだように見えて、蓮に最後の選択をさせた操に、婆は胸の締めつけられる思いだった。
やはり苛烈の道を選ばれるか……
蓮はいつもと変わらず、ただひっそりとそこに在った。
あるいは、うすうす解っているのかもしれないが、何の懸念も示さぬ蓮もまた哀しいと、婆は思った。
「髪を上げたか。気色麗しい様子で何よりだ」
先触れが去ってしばらくすると、ひょっこりと操が顔を出した。
礼を持って迎える蓮に、からからと笑う。
「堅苦しいのは抜きだ。まずは一献付き合え」
伴って来た酒肴を並べさせ、操は盃を勧めた。
蓮はそれを先んじ、酌をしようと手を伸ばす。
「まずそちだ。盃を受けよ」
操の言葉に蓮は小さく頷き、控えめな仕草でそれを受けた。
「あまり呑ませると婆に叱られるかな」
そう首を竦めると、少年は心持ち表情を緩ませて、操の盃を満たした。
「具合はどうだ。まだ熱が出るか?」
操の問いに、蓮が小さく首を振った。
そのおもざしはまだ陰りを含んでいる。血の気の引いた白い肌は、透き通るようにさえ操には見えた。
その頬を掌で包み、しばし操は蓮を見つめた。
少年の瞳は戸惑ったように、操を映して揺らめいていた。
「……いや。婆は厳しかろう。苛められておらぬか?」
操の言葉に、傍らの婆が気色ばむ。
「この曹操が天下で唯一敵わぬのが、あのばばあだ。そなたなど、ひとたまりもあるまいなあ」
大笑すると、操はぐっと蓮の耳元に寄った。
「あの婆さんはな、孤が子供のころからあの姿だ。本当だぞ」
蓮はその囁きに驚いたらしい。婆に瞳を向ける。
「阿瞞。また人を妖怪のように言うたな」
幼いころのままに操を呼び、婆が睨みつけた。
「婆。いつまでも耳が達者だのう」
そのやりとりに、ようやく蓮が小さく口元をほころばせた。
愛らしいと思う。人を疑わぬ直な性だ。
瞳を細める操に、婆がそっと目配せを送った。
止めよと言っている。
時間を掛けて接すれば、素直なこの子だ。いずれ心は通じよう。
ただ時さえ待てば良いのだ。
だが、操は首を振った。
時は待てない。
このまま過ごせば、蓮は悪夢に喰い尽くされてしまうだろう。
揺るぎないその思いを見てとって、婆はやがてひっそりと室から姿を消した。