七十八.
輌の中で操は、むすりと座っていた。
府へ向かって走り出したというのに、まだ中断された甘い時間に未練があるのだろうか。
『怒っているの?』
蓮は心配になって、そっと文字を綴る。
「傍に寄ると、この場で組み敷くぞ」
ぎろりと睨まれ、蓮は瞳を潤ませながらそれを続けた。
『蓮だって辛い……』
見上げた瞳の奥に、燃えるような情欲があった。
「……ならばなぜ、戻るなどと言い出したのだ。今日一日戯れてからでも良かったではないか」
今からでも遅くはない。輌を返そうかと操は思う。
『だって、そうしたら蓮は操を返したくなくなるもの』
「だから、しばらく寮で過ごそうと言うに……」
『それはダメだよ』
今にも泣き出しそうな貌をしているくせに、そこは譲らず首を振る。
操はひとつ溜め息をつき、仕方なく笑った。
「まあ良いわ。だが、今宵は覚悟致せよ。朝まで寝かせんぞ」
本気なのか、冗談なのか、判らないところが恐ろしい。
蓮は小さく苦笑すると、そっと操の肩に頭をもたれた。
だが、輌が府へ着くと、すっと背筋を伸ばしてそこに降り立つ。
顔つきまでが少し違った。
大人びて……
操はその横顔に思う。
蓮は操の後に随って、そのまま公室へと入った。
ちょうどそこには荀文若を筆頭とした謀臣達が集っていた。郭奉孝の姿もある。
「主公……」
思い掛けないお戻りに、彼らのほうも驚いたようだ。
「どうなさったのです」
「蓮に訊いてくれ」
素気無く言い捨てて、操は座に腰を降ろした。
蓮は彧に近付くと、ひとつ頭を下げ、何やら仕草を見せた。
「手を借りても良いかと訊いているのです。蓮は、話したい事があるのでしょう」
戸惑う彧に嘉が口を添えた。
文字で綴るのだと気がついて、彧が掌を差出す。
『大事な人を貸してくれてありがとう。迷惑を掛けてごめんなさい。もうこんな事はしません。みなさんにも、蓮が詫びていたと伝えてください』
ゆっくりとそう記してから、蓮は周囲にも丁寧に頭を下げた。
「よろしいのですか?」
思わず彧は、君へと視線を向け尋ねた。
「そういう事だ。とっとと仕事を持って来い。さっさと片付けて、孤は室へ戻るぞ」
ぶつぶつと何やら愚痴りながら、慌てて積み上げられて行く書簡に手を伸ばす。
「主公。このまま蓮殿に手伝ってもらいなされ。疾く片付きますぞ」
程仲徳の声に、荀公達もそれを添えた。
「そうですな。そのほうが我々も助かります」
思いも掛けない賛同の声に、蓮の視線が戸惑ってさ迷う。
救いを求めるように辿り着いた先で、やわらかな笑みを湛えた嘉が頷いた。
思わず涙が零れる。
蓮は慌ててそれを拭うと、思いを込めて彼らに頭を下げた。
言葉で伝えられない自分を、残念に思う。
「蓮、おいで」
操に呼ばれ、蓮はひとつ頷いてから歩を進めた。
「先に言っておくが」
蓮を腕に絡めて傍らへ座らせながら、操が続ける。
「今日は長居せぬぞ。日暮れまでには必ず蓮を連れて行くからな」
何を言い出したのかと、蓮は慌てて袖を引いた。
ここに集っているのは頭脳明晰な者達ばかりだ。操の言葉の意味を、難なく解してしまうだろう。
蓮は耳まで真っ赤になりながら、それでも健気に仕事をこなした。